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法話

仏と共に歩む 3 仏と共に歩むために

先月は「仏とは何かを理解する」という章でした。

仏とは智慧(ちえ)と慈悲の心を持っていて、
その心に気づいていくことが仏を理解することであるというお話を致しました。

仏の智慧は、
「善いことをすれば善い結果が現れ、
悪いことをすれば悪い結果が、そこに現れてくる」
ということ。
慈悲は、相手を慈しみの思いで包んでいくということでした。

続きです。

随信行(ずいしんぎょう)と随法行(ずいほうぎょう)

仏と共に歩むためには、二つの努力の仕方があります。

ひとつは随信行で、大いなる仏の存在を信じることと、
その仏の心が自らの心の中にもある、ということを信じることです。

もうひとつの随法行は、仏の教えを学び実践していくということです。
この法とは教えという意味です。

初めに、随信行から考えていきます。

この世には神も仏もない

ここで二つの人生を見ていきます。
ひとつは「神も仏もない」と言い切ります。
もうひとつの人生は「神からいただいた試練と思う」という人生観です。

ある新聞の投書からですが、
概略を書きながら、二人の神仏への思いを考えてみます。
(いつもの場合、どこからの引用かを明記しますが、
今回は控えさせていただきます)

まず、「神も仏もない」という65才の女性です。

神も仏もないと思い3年がたちます。

ある日突然に夫が倒れました。
心臓の手術をしないと死に至ると医師に言われました。
手術は14時間半かかり、安静状態で目を開けたのが13日目。
「今夜が山です」と言われ、一人泣きながら神様に祈り、
眠れない夜を過ごしました。

今まで真面目に生きてきて、何も悪いことはしていないのに、
どうして夫はこんなに苦しまなくてはいけないのか。

夫は
「あのとき死んでいれば、こんな歩行練習もしなくて楽でいいのに」
と言います。

今は努力のかいもあって夫は少し歩けるようになり、
何でも食べられ、会話もでき、車椅子でどこにでもいけるようになりました。
今は明るく前向きに生きようと思っています。

ざっと、こんな意味の文章です。

夫が心臓病で倒れ、苦労して少し元気を取り戻し、
前向きに生きられるようになったけれど、
神も仏も信じないと言い切ります。

何故神も仏も信じないかというと、
「何も悪いことをしていないのに、ど
してこんなに苦しまなくてはいけないのか」
という思いです。

神がくれた試練

もうひとつの人生は、困難にあって、
それをどう考え乗り切ろうとしているかを書いたものです。
73才の男性です。概略です。

息子が白血病の疑いで緊急入院となりました。
その知らせをうけ、あまりのショックに笑顔が消えました。

病院で見た息子は、体に紫斑(しはん・内出血であらわれるはん点)で、
顔はむくみ変わりはてた姿です。
それから半年、無菌室で抗がん剤と闘っています。

私自身も脳梗塞や胃がん、心臓疾患で治療を受けていて、
妻は軽い障害があるにもかかわらず、私の介助をし、
息子の病気を支えながら頑張っています。

妻は
「なぜ私たちがこんな目に遭わなくてはならないのか。
母親にならなければよかった」
と落ち込むこともあります。

私は妻に
「もっと大変な人もいる。
神様がこれくらい耐えられると与えた試練と思っていこう」
と励まし、感謝し、時にはしかりながら暮らしています。

心から笑える日まで。
幼い孫たちから元気と笑顔をもらいながら。

この二つの人生の考え方をみると、同じ大変な思いをしているのに、
一人の方は、神も仏もないといい、
一方の人は、神の試練と思い受け止めていくと考えています。

どちらが優れているかというのは、ここでは取り上げないにしても、
随信行からいえば、後者の「神様の試練と思い」という生き方のほうが
、困難を乗り越えていくためには、とても大事な考え方であると思います。

今回のテーマである「仏と共に歩む」ためには、
困難な中でも大いなる存在の力を信じ、また心の内にも、
その困難を必ず乗り越えていく力があると信じて生きる。
この考え方が大切に思われます。

浄信(じょうしん)という言葉があります。
素直に神仏を信じるということですが、
この信じることにも忍耐と努力がいるのかもしれません。

教えを学び実践していく

二つ目は随法行(ずいほうぎょう)です。

この法は教えという意味でしたが、この教えもさまざまで、
何に関心を持って生きているかで、教えも変わってきます。

まず、教えを学ぶことが大切になります。
そのことをお釈迦様はこう説いています。

学ぶことの少ない人は、牛のように老いる。
かれの肉は増えるが、かれの知慧は増えない。

(『真理のことば 感興のことば』中村元訳 岩波文庫)

牛のように老いるとは、人生を無駄に過ごしてしまうという意味にとれます。
学ぶことで智慧(ちえ・中村元の訳では、知慧という漢字が使われている)が増え、
どう生きていけばよいかを、自らの力で判断できるということです。

たとえば「驕(おご)り」ついての教えが出てきます。
驕りとは「思いあがること」ですが、この驕りでせっかくの幸せを逃してしまう。
そんな場合がたくさんあります。

健康の驕りもその一つで、健康の有難さを忘れてしまう。そんな時もあります。
あるいは驕りゆえに失敗し、今まで築いてきた信頼や成功を逃してしまうこともあります。

阪急電鉄や宝塚劇団を始めとする阪急東宝グループの創始者であった
小林一三(いちぞう)という人が、お金持ちの友人と会った時のエピソードが
どこかの本に載っていて、そこにはこう書かれていました。

小林さんが、あるお金持ちの友人にたまたま出会い、
その夜、話でもしようと、その友人が泊まっている宿を
訪ねたことがあったそうです。

その宿はとても粗末な所で、
「君のようなお金持ちが、どうしてこんなにみすぼらし宿に泊まっているのか」
と問うと、友人は

「事業を始める前に、よくここへ夫婦で泊まりに来ていた。
今は幸いにも成功しているが、苦労した成功前の志を忘れないように、
年に一度、ここに泊まって厄落としをしているんだよ」

と語ったそうです。

このエピソードを読んで、
驕らずに、謙虚に成功を受けとめている姿が尊く、
忘れないでいました。

これも驕らないという教えを実践している人の尊い姿ではないかと思います、
こんな生き方が随法行です。

この二つを学び実践していくことが、仏と共に歩んでいることであり、
またその生き方のなかで実際に仏と出会えるようになるのです。

仏と共に歩む 4 仏と出会い、仏を見て、仏と共に歩む

お経の文字が仏

できることならば、生きている時に仏に出会い、その出会いから、
さらに幸せを培い、その幸せを周りの人に与えていくことが大切です。

仏と出会い、仏を見る方法を3つほど挙げてみます。

まず、1番目はお経の文字が仏であるということです。

この法話をした平成25年の頃ですが、諏訪市のサンリツ服部美術館で
「名品との出会い」ということで、重要文化財3件を含む、
さまざまな美術品の公開がありました。
当時の「長野日報」という地方新聞にその様子が掲載されていました。

その中に「紺紙金字一字宝塔観普賢経」
(こんしきんじいちじほうとうかんふげんきょう)というお経が載っていました。
そこには、金色で描かれた仏と、銀色の壺の形をした宝塔の中に、
一つひとつのお経の文字が描かれています。
その宝塔の中に入っているお経の文字が仏であるというのです。
ですから、よく読まれる「般若心経」の文字も
一つひとつ仏の姿を表しているといえます。

さらに京都の六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)に
空也(くうや)というお坊さんの仏像があります。
運慶(うんけい)の子である康勝(こうしょう)の作であると言われています。

空也は平安時代に、念仏を唱えて
浄土信仰の先駆けとなる布教をしたお坊さんですが、
その仏像の口から阿弥陀様の像が6体並んで出ているように作られています。
その6体の仏様は「南無阿弥陀仏」の6文字を仏として表しているといいます。
口から出る、「南無阿弥陀仏」の言葉が仏なのです。

ですから、たとえば「般若心経」を読むと、
口から仏が現れ出てくるともいえます。
その仏は、私たちの心の汚れを伴って外に出してくれるので、
お経を読んだ後すがすがしく感じるのです。

自分の心の中に仏を見る

自分の中に仏を見るというのが2番目です。

昨年の12月17日に伊那市のウエスト・ヴィレッジという喫茶店で、
「幸せのありか」という演題で、1時間半ほどのお話を致しました。

そのとき、法話が終わって片付けを手伝ってくださった男性の方が、
お話を聞きに来てくださった方の飲み残しのお茶を捨てようと、
喫茶店の調理場に入った時、誤って転倒してケガをしたのです。

その方が後日、こんな手紙をくれました。

先日は、ご迷惑をおかけしてすみませんでした。
ウエスト・ヴィレッジにもご迷惑をかけてしまいました。

帰り道、歩きながら反省しました。
不注意だった事。茶碗を割ってしまった事。
後片付けをしてもらった事。
左小指を少し、右膝を少し切った事。

落ち込みながらも、和尚さんの法話を思い出していました。
大きな負傷はなかった。小指は動く。歩ける。帰る家がある。
心配してくれる人達がいた。
「私は幸せに包まれている」と、気付く事ができました。
ありがとうございました。

ケガをするという大変な経験をされたのに、
「私は幸せに包まれている」と書いています。
その気づきは、心の中に自らの仏の姿を見ているのです。

同じような経験をしている方もいると思いますが、
自らの心を見つめ、幸せであると思えば、仏と出会っているのです。

相手の生き方や、言われた言葉の中に仏を見る

自分の心の中の仏と出会うという話でしたが、
さらに相手の生き方や、言われた言葉の中にも、
仏の姿を見ることができます。

この「仏と共に歩む」というお話をしたのが、平成25年6月24日です。
その月の6日に、伊那市文化財審議委員で古文書研究会の会長をなされている
久保村さんという方が、伊那ケーブルテレビの方と一緒に、
護国寺の位牌堂に安置されているお地蔵様を取材に来られました。

ずいぶん年配の方で、杖をついてお寺に来られました。
位牌堂に案内し、「これがお地蔵様です」と、
お地蔵様のいわれを少しお話しました。
久保村さんは「立派なお地蔵様ですねえ」と、
しみじみお地蔵様を見上げています。

お寺に来るときには杖をついて山門を入ってきたのですが、
帰る時には、すっかり杖を忘れて帰っていかれました。

玄関にあった杖を発見し
「久保村さん、杖を忘れていった。元気になっちゃった」
と、思わずそんな言葉がでてきました。
これもお地蔵様のお力なのか、と思わずにはいられませんでした。
これも随信行です。

そして帰り際に、久保村さんが言うのです。
「私のために庭も本堂もきれいにしてくださって・・・」と。私はそのとき
「久保村さん一人のためではなくて、仏様がいつでも天から降りてこられるように、
お参りに来られる方が気持ちよくお参りできるためにと思い、
きれいにしているのですが・・・」と答えたのです。

後日、このことをどなたかにお話すると、
「和尚さん、それは仏様から来た言葉じゃないですか。
仏様の変わりに、久保村さんが言ってくださったんですよ」と。

そう言われて初めて気づかされました。
「ああ、久保村さんを通じて、
仏様がきれいにしてくれていてありがたい、と言ってくださったんだ」と。

相手から投げかけられた言葉にも、さまざまな言葉があります。
やさしい言葉。きつい言葉。叱る言葉。励ます言葉。笑いをいただく言葉。
そんな言葉の中には、仏から来た言葉があるかもしれません。

その言葉を聞いて、幸せになったり、あるいは不満を思うこともあるかもしれません。
でも、その言葉が、自分に何かを気づかさせていただいたものであるならば、
それも仏と出会っている尊い一瞬です。

同行二人(どうぎょうににん)という、
仏と私が志を同じくし、二人共に歩いている。
そんな言葉があるように、いつも私たちは、仏と共に歩んでいるのです。