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法話

真心こめて生きる 2 無駄にしない生き方

先月は「大切な生き方」というテーマでお話し致しました。
私たちの思いにはさまざまなものが入り混じっていて、
その思いの中で、優しさや思いやりをいかに多く使っていくかで、
人生が幸せの方向へと変わっていくというお話を致しました。続きです。

その人にあった出来事

人は幸せな出来事や嬉しいことであれば、素直に受け取ることができますが、
苦しいこと悲しいこと、あるいは失敗したことなど、
真心こめて受けとることは難しいことです。

一つの真実として、自分に起こってきた出来事は、
その人になくてはならない出来事であるということです。

家の喩(たと)えをします。
最近の家は、非常に機能的で住みやすい造りになっています。
お寺の本堂は、一般の人が住むのには適していません。
天井は高く、屋根の作りも住宅とは違います。

そうだからといって、一般の住宅のように本堂を改築してしまうと、
なぜかお寺としての尊さがなくなってしまいます。
天井が高くても、屋根に多額のお金がかかってしまっても、
お寺にとっては無駄でなく、お寺にふさわしい造りなっています。
その本堂に、本尊様を祀り、厳(おごそ)かな中に、手を合わせられる。
そんな場になっているわけです。

人も同じように、その人にあった出来事が起こってきます。
無駄に思えるその出来事も、受け入れがたい出来事も、
その人にはなくてはならない出来事で、そこから尊い生き方を学ぶわけです。
その生きる姿勢が真心こめて生きることに通じていきます。

別れの悲しみ

ある新聞の「編集手帳」の中に、
詩人の川崎洋さんのことが書かれていました。

17才の次女から、
半年の内に両親を相次いで亡くした友達に詩を送りたいから、
作ってくれと頼まれたそうです。その詩を作るのに悩んだ末、
悲しむしかないと思い、こんな詩を作ったのです。
その一節に、

一日を我慢して 二日目を我慢してください それが三日になり一か月になり やがて一年になります そして五年がたちます そのとき今とはちがいます ですから 今を我慢してください

(読売新聞 令和2年7月1日付)

こんな詩の一節でした。

別れは辛く悲しいものです。
それが短い人生であればなおさら悲しみは深いと思います。
その悲しみを無駄にしないというのが、真心こめて生きることなのです。

この年(平成26年)の7月、ある女性の33回忌のご供養を致しました。
その女性は34才で不治の病で亡くなってしまったのです。
お寺で毎月出している「法愛」(平成26年4月号)に、その女性のことを書きました。

法事の時、その女性のお父さんに聞いた話です。
ある夜、どうしても寝られない日があって、夜中に起きだし、
仏壇の前で「法愛」を読んだというのです。

このお父さんは、あまり「法愛」を読んだことがなく、
その日に限って、「法愛」を仏壇の前で読んだのです。
すると、亡くなった娘のことが書かれていて、
これは娘からの導きではないかと思い涙した、という話です。

大切な心の力

その時、どんなことを書いたのかと読み直してみました。
少し引用します。小さな見出しには、
「相手の心に入っていける心の力」とあります。

数年前34才で亡くなられた女性がおられました。
その葬儀の折に、彼女の生前のことを思い返し、
つい涙をこぼしてしまいました。

私が実際に体験したことではありませんが、
相手の気持ちを自分の心に重ね合わせると、
相手の気持ちが分かって、悲しみを共にすることができるのです。
人にはそんな心の力があるのだと思います。

今から28年ほど前に、40才で亡くなられたある女性の葬儀を致しました。
私がまだ32才の時です。その女性には2人の娘さんがいて、
当時はまだ2人とも保育園に通っていたと思います。
お母さんを亡くされた子どもさんの気持ちはどうだったのでしょう。

そんな2人の子どもさんもお父さんに守られ大きくなり、社会人になりました。
姉妹2人は友達のように仲が良く、そして、助け合いながら頑張って生きてきました。
そんなある日、お姉さんが不治の病にかかってしまったのです。32才のときです。

その病名を知らされても、何とか立ち直ろうと明るく、
病に負けずに生きてきましたが、暑い夏のある日、
帰らぬ人となったのです。享年34才でした。

引導の最後に、こんな短歌を添えて送りました。

ありがとう共に暮らししほほえみの
日々は楽し遥かなる君

長い間住職をしてきましたが、
母とその娘さんの葬儀を私一代で行うというのはまれで、
しかもその娘さんがお母さんを亡くしたときの、
幼少の頃の姿が忘れられないでいたので、
私にとっても悲しい葬儀になりました。

自分のことのなかに、他の人のことを、
自分のこととして考えられるから、
悲しみを共に分かち合うことができるのだと思います。

同じように幸せもそうです。
自分のことのなかに、他の人のことを、
自分のこととして考えられる力があるからこそ、
相手の幸せを考えてあげることができるのです。

少し引用がながくなりましたが、真心を込めて生きていると、
こんな心の力を培っていけるのだと思います。

大切に生きようと思い続ける

人生の中で起こってきたさまざまな出来事から、
何か学ぶべきものがあると思い生きていく。
そうすると人生を無駄にしない生き方ができるようになります。
その生き方をずっと続けていく。そんな生きる姿勢がとても大事です。

常に継続しているものといえば、心臓をあげることができます。
心臓は一生のうち、平均で約20憶回動き、
1回の呼吸では4回ほど心臓が鼓動を打つのです。

この計算から推測すると、
息の長い人はそれだけ心臓がゆっくり動くので長生きができるわけです。
いつもイライラし、カッカしている人は、呼吸が早くなり、
心臓も動きが速まり、長生きができないのです。
ですから、物事にこだわらず、穏やかに暮らしている人は、
長生きできると思われます。

日々休まず動いている心臓さんに、何をすればいいでしょう。
そうです。「心臓さん、いつも休まず働いてくれてありがとう」
と言うわけです。

ちなみに、このお話を聞いている方々に、
「今まで心臓さんにありがとうと言ったことのある人は手をあげてください」
と問いかけると、あまり手が上がりませんでした。
とても身近なことなので気がつかないのかもしれません。

こんな詩がありました。
「等身大」という詩です。57才の女性の作品です。

「等身大」


何事もなく目覚めたら
今日できることをしよう
明日の事なんて
考えないで
今日一日を丁寧に
生きよう
今日という日の私には
もう二度と
出会えないのだから
まず今日一日を
生き抜こう

(産経新聞 平成28年12月15日付)

こんな詩です。
「今日という日の私にはもう二度と出会えないのだから」
というところは、どきっとします。ほんとうにそうだと思います。

こんな気持ちで、ずっと生き続けていたならば、
悔いのない人生を生きられると思います。

やがてお迎えがきたとき
「ああ、悔いのない、いい人生でした。とても幸せな人生でした」
と言えるように、今日一日を真心こめて生きていくのです。

人生を無駄にしてしまうマイナスの思い

人生には無駄なものがない、というのはとても尊い精神ですが、
とかく人は、人生を無駄にしてしまうことが少なくありません。

その根本の心の思いは、欲心であり、怒りであり、
愚痴という不満の思いであるといわれています。
欲心が出て返って損をし人を傷つけてしまったり、
怒りで幸せを逃し自らの心も汚し、不満な思いが口論になっていがみ合う、
そんなマイナスの人生を呼び寄せてしまいます。

人が一生けん命働いて得たお金を盗み取るという行為は、
欲心から出た行為です。

あおり運転が厳罰化されましたが、これは怒りから来るものです。
今年6月30日に、女性の乗用車が軽トラを運転する男性の前に
割り込んだと腹を立て、ヘッドライトを何度も点滅させてパッシングし、
女性の車が信号の前に止まったとき、その車の前に割り込み車から出て、
「何で割り込んできた」と怒鳴ってカマで脅迫したという事件がありました。
腹を立てると、正しい行動ができなくなります。

介護に見る迷いの姿

この欲心、怒り、不満を併せ持つ場のひとつが介護の場です。
施設で働く介護職員の中にも虐待をする人がいるようですが、
人生を無駄にしてしまう生き方といえます。

介護で思い出すのは、歌手であり女優でもあった清水由貴子さんです。
平成21年4月に認知症を患う要介護5の母親の介護疲れからうつ状態になり、
お父さんの墓前で自殺をしてしまったことです。
介護疲れのほかにも原因があったようですが、
父のお墓の前で逝ってしまったのは衝撃的でした。

この場合、介護する本人が疲れきってしまったのですが、
その逆に虐待をしてしまう場合もあります。
平成28年の統計によると、介護での相談通報件数が約3万件あり、
虐待と判断された件数が1万7078件あります。

家庭内で誰が一番虐待をするのかを見ると、
息子が40.5%で、夫が21.5%。そして娘が17.0%。
そして妻、嫁と続きます。身体的虐待が全体で66.6%ですから、
そこには欲心と怒りと不満が入り乱れているのではないかと推測します。

「文芸春秋」の平成26年8月号に
認知症高齢者の手記を公開したものが載っていました。
その中にあった75才になる女性の手記を載せてみましょう。

年を取りまして頭が半分ボケになってなかなか頭が廻りません。
言葉がわかりませんが、がんばります。
若いころは助産婦としてガンバりました。(略)

今は殆(ほとん)ど私一人です。
息子と一緒ですけれど殆ど口もききません。
唯シャベル事は私を叱りつける事だけ。さみしいだけです。

こんな手記です。

辛い日々ですね。
息子さんが人生を無駄にしない生き方に目覚めることを祈るばかりで、
ここには「真心をこめて生きる」生き方が薄れています。

遠き母の思い

こんな短歌があります。

寝付くまであおぎくれいし遠き日の
母の団扇に及ばされども

(毎日新聞 平成26年7月21日付)

伊藤一彦先生の選で、こんな評が載っていました。
「寝ている母に団扇(うちわ)の風を送っている場面と思う。
かつての母の涼しかった団扇を思い出している下の句が印象的」。

寝ている自分の母に団扇で風を送っている。
昔、自分自身が子どものころ、母に同じように、
どれほど団扇で涼しい風を送っていただいたかを思い返しています。
母にいただいた愛の思いには到底及ばない。
それほど母にはお世話になったと書いているのです。

最近は暑くなり、団扇を使っている人も少なくなりましたが、
でも団扇の風は、その人の思いが風にのってやってくるのです。

私自身、お盆のお経で各家を回っているとき、
お経中に後ろで、団扇で涼しい風を送ってくれた女性がいました。
何よりのおもてなしで、心がほんのり温かくなったのを思い返します。

「よたっこ」の寛仁君が、支えられる愛の風を受け、
まともに生きていける道に誘(いざな)われてきたことをありがたく思うのです。

多くの人に支えられお世話になってきたことを、静かに思い返し、
その恩に報いて生きる生き方こそ、真心こめて生きている姿ではないかと思います。
その生き方を長く続けていくことで、人格が磨かれていくのです。

(つづく)