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法話

花に学び、花と遊ぶ

「花に学び、花と遊ぶ」という演題でのお話は、
平成25年4月12、当寺の女性部の理事会でお話ししたものです。
30分ほどの話で、一度、聞き直してみると、
それなりに学ぶところがあるので、今回、文章にしてみます。
季節が4月であったので、花の代表である桜から学び取ったお話です。

花も仏の姿

この世に私たちは徳を積むために生まれてきました。
徳を積むためには、多くの学びをし、その学びからさまざまな体験をし、
その体験から培った知恵で、多くの人の幸せのために生きていく。
そこに徳が発生してくるのです。

その学びの一つに、自然から学び取るという方法があります。
禅語に、こんな言葉が出てきます。

山河ならびに大地、全く法王身を露(あらわ)す

ここで難しい表現が法王身(ほうおうしん)です。

ここの法は教えです。
王は、その教えを自由に説くことのできる仏陀です。
身は、身体ですから、法王身の意味は、
「仏の身体、仏の姿そのもの」を意味します。

全体の訳は、
「山も河も大地も、そして大地に芽吹く花も草も、
そこに憩う動物たちもみな、仏の現れである」
となります。

今回のお話では、「花から学ぶ」ですから、この花を中心として、
特に桜の花が、どんなことを教えているのかを考えていきたいと思います。

お釈迦様の愛した蓮の花

お釈迦様が好んだ花に蓮の花があります。

この蓮の花をたとえて、人の生き方を説かれました。
蓮の花は泥沼の中に咲きます。決して清水の中では咲きません。

この世を濁世の世とよく表現します。
これはこの世は、苦しみの多い世であり、
自分の思うようにならない世という意味です。

さらには煩悩ゆえに間違った生き方をしてしまう。
そんな世を泥沼にたとえたのです。

そんな泥沼の所であっても、蓮はそこにきれいな花を咲かせます。
ですから、その蓮の花のように、
この濁世の世で自らの美しい花を咲かせることが、
とても大切なことだと説かれました。

お釈迦様や阿弥陀様、あるいは観音さまやお地蔵様の仏像はみな、
蓮の花の台座に乗っておられます。
また、多くの寺院の須弥壇(しゅみだん)と言われる
仏様を安置する台には、金色の蓮の花が飾られています。

この意味でも、花は仏と縁の深いものであり、
もしかしたら、花は仏の姿の現れかもしれません。

耐えて成長する

春になるとたくさんの花が咲きだします。
そのなかでも、桜の花は日本の代表的な花として多くの人に慕われています。

桜の種類を調べてみると、
野生の桜が9種類で、栽培した品種は300種類以上あるといいます。
たくさんの種類の桜があるのですね。

そんな桜の花も、いつもあたたかな条件で咲くのではありません。
寒い冬を耐えて、その中で蕾を守り育んで、
あたたかな春になって咲きだします。

そこから教えてもらうのが、
人も耐えて成長し、花を咲かせることができるということです。

耐えるといえば、人間関係でのことが多々あります。
現在1年間に60万ほどの婚姻があると言われていますが、
年に3分の1の夫婦が離婚をしてしまうのです。

こんな話をどこかで読んだことがあります。
近所のアパートにご夫婦と2才くらいの娘の3人家族が引っ越してきました。
ご近所の人たちとも仲良くなり、アパート前の公園で、みんなで遊んでいました。
sすると、ある女性がこちらにやってきたのです。
その女性を見た瞬間、ご主人が真っ青になって逃げだしました。
そこにいた皆は「愛人が来た」と思いました。でも違いました。
訪ねてきたのは本物の奥さんだったのです。
このご主人と一緒に暮らしていたのが、実は愛人だったのです。
本当の話のようですが、これを解決するのは大変なことで、修羅場となるでしょう。

「結婚する友人が妬ましくてたまらない」という20代の女性。
「専業主婦をバカにする友人に深く傷つく」30代の主婦。
「ありがとうも言わない姑にイライラする」60代の女性。
「何の世話もしてくれない嫁に、会いたいとも思わない」70代の女性。
「孫がいない淋しさで、友人からの孫が写っている年賀状を破り捨てる」60代の女性。

さまざまに、人間関係からくる耐えがたいことごとが起こってきます。
「嫌いな奴が、私を育てる」という格言がありますが、
人間関係から学ぶこともたくさんあります。

いつも仲良しでいるというのは難しいことです。
誰しも時には喧嘩をし、仲たがいをします。

そんな時、桜の花が寒さを耐えるように、よく耐えて、
互いに相手の良いところを見て過ごすと、やがて幸せの花を咲かせるときがきます。

他の幸せを思う

人に尽くすことは美しい人としての姿です。
でも、そこに現れるマイナスの思いがあります。
それは「こんなにしてあげたのに・・・」という思いです。
「私がこんなに苦労して尽くしているのに、何の感謝の言葉もない」
という鬼の姿です。

「ああしてやった。こうしてやった。やったやったで地獄ゆき」
という格言もあります。

伊那で有名なのが高遠の桜です。
桜の咲くころ、多くの人が高遠の桜を見に来ます。
桜の咲く公園に入る時には、入場料を払はなくてはなりません。

その入場料は桜がもらうのではありません。
よく考えてみれば、桜の花を見にきたのですから、
そのお礼に桜が、納められた代金を受け取る権利があります。

でも、桜は一銭も受け取らないのです。
ただ、そこに咲いて、来てくださる方を笑顔にし、幸せにさせます。
そのことで、代価をもとめたりはしません。
あたりまえのことのようですが、花に教えてもらう尊い学びです。

この「法愛」も、桜の花びらと同じです。
桜は1年に一度花を咲かせますが、この「法愛」は毎月花を咲かせ、
「法愛」という花びらが、読みたい方の手元に散っていきます。
代価を求めるものでなく、この「法愛」を手に取り読んでいただいて、
少しでも幸せな思いになっていただけるようにと願い、出しています。

復元納棺師の仕事

こんな桜のような生き方をなされている人を発見しました。
ある新聞に、復元納棺師という仕事をしている
笹原留似子(ささはらるいこ)さんのことが書かれていました。

納棺師といえば平成20年に「おくりびと」という映画が大ヒットしました。
納棺師が亡くなった方にお化粧を施し、納棺する。
その様子を家族が見守るというものです。

復元納棺師は、誰か分からなくなってしまった人の顔を復元して、
生前の顔に戻す仕事です。違和感のない笑顔にするのです。

ガンで抗癌剤を使ったために、顔に黒い斑点が出て、見るに忍びない。
そんな30代の女性を送ったことがありました。

復元納棺師であれば、元気なころのきれいな顔に戻せ、
彼女を送る家族も、納得のいく葬儀ができたのではないかと、
そんな思いを持ったことがあります。

笹原さんは東日本大震災で震災直後から遺体安置所を巡り、
ボランティアで、故人の生前のおもかげを復元し、
5カ月間で乳児から90才のお年寄りまで、300人以上の方々の顔を復元しました。
その「復元師」の原点となるところをそのまま載せてみます。

「復元師」の原点となる出会いは唐突に訪れた。

最初の納棺師の仕事で、
バイク事故にあった少年の亡きがらと、彼の自宅で対面。
事故の大きな衝撃で生前のおもかげはみつからなかった。

それ以上に驚いたのは、
変わり果てたとはいえ少年の遺体が目の前に置かれた室内で、
テレビを観て笑っている肉親の姿だった。

本当に笑っていたわけではない。
現実を受けいれられずに目を背けていたのだ。
遺体は対面できる状態ではなかったが、
「遺族が死を受け入れられないまま、
火葬されてしまっていいのだろうか」
とっさに復元を試みていた。

皮膚をマッサージし綿やパテを使って元の輪郭に戻し、傷やあざを隠していく。
ありったけの技術を2時間近くかけて戻した。

「寝ているみたいだ」
精悍(せいかん)なおもかげが戻った息子を目にし、
遺体にすがり、我が子の名を泣き叫ぶ父の姿があった。

(朝日新聞 平成25年3月23日付)

復元技術を独学で身につけ、
平成24年「桜」という会社を立ち上げ、
家族も一緒に行う「参加型納棺」を実践しているといいます。

笹原さんの仕事から、
人の悲しみや苦しみを取り除き、幸せな思いで包む。
そんな仕事に、桜と同じ、見返りを求めない生き方を学び取ることができます。

震災のボランティアで、笹原さんも負けてしまうようなこともあったようです。
お孫さんの女子高生を復元した時に、おばあちゃんが笹原さんの手を握って、
「あんたの手は、たくさんの悲しみに出会うんだね。
だから、くじけないように魔法をかけたげるよ」
と抱きしめてくれたそうです。

寒さで手がしびれ、何度も右手があがらなくなったけれど、
その一言で踏ん張ることができたと語っています。

人は支え、支えられて生きているのです。

自分の生き方を大切にする

日本には三大桜があります。

その一つに福島県三春町に樹齢推定1千年超の三春滝桜があります。
私も縁あって、その桜を見たことがあります。
高さ12メートル、根回りが11メートルもあるそうで、
驚きを持って見上げたことがありました。
そんな巨大な桜の姿もひとつの花の姿です。

でも、花にはさまざまな種類の花があります。
野に咲くタンポポの花でも、自然の大地になくてはならない花です。
子ども達がたんぽぽと戯れる、そんな情景を思い浮かべると、
きれいな絵が描けそうです。

みんな、それぞれの花は、自分の花を咲かせて生きています。

こんな詩を見つけました。
「かたくりの花」という題で、76才になられる女性の方の詩です。

「かたくりの花」

華やかな櫻の木の下で
ひっそりと咲く
うすむらさきの花
風にかすかにゆれる

つれあいは
櫻を見に行こうとは
決して言わない
あのかたくりを見に行こう
と言うのだ
めだたなくても
その可憐な花を
愛でる人もいる

(産経新聞 平成25年3月24日)

桜の花でなく、桜の木の下に咲く
小さなかたくりの花を見に行きたいと詩で語っています。

花から学ぶことは、人もみなそれぞれ違う花を咲かせるということです。
その花が目立たなくても誰かが見て、安らぎを得ているということです。
この学びは、自分の生き方を大切にするということではないでしょうか。

不幸や幸せを、いつまでもつかんでいない

桜の花の散り方は潔く、さらさらと風に吹かれて散っていきます。
桜の咲いているところを見るのも感動しますが、
風に任せて散っていくその様子も感動的です。

そんな散り方から学ぶことは、
「いつまでもつかんでいない」ということです。

人生には苦しみも悲しみもあります。
その時は大変かもしれませんが、それをずっとつかんでいて、
いつまでも苦しい、悲しいと嘆いていても幸せにはなれません。
時が来たら、その苦しみや悲しみを心から離してしまうことです。
桜の花が潔くその大木から離れていくように、です。

幸せの形も変わっていきます。
幸せは変わらないという固定観念を捨て、
今日の幸せを、明日に引きずらないことです。

今日の幸せは散っていきます。
その散った幸せをいつまでもつかんでいないということです。

もっと具体的に言います。

たとえば、愛して合って夫婦になります。
夫婦になる前の幸せと夫婦になったときの幸せは違います。
それを理解できず、結婚前につき合っていたときは幸せだったけれど、
夫婦になったら幸せではないと思う時がきます。

でも、幸せの形が違っているのです。
夫婦は夫婦である時の幸せがあります。それを見つけるのです。
つき合っていた時の幸せから手を離すのです。

夫婦でも子供を授かると、また違った家庭環境になります。
夫婦だけの時は幸せだったという思いを捨て、
今度は子どものいる家庭の中に幸せを探していきます。

やがて子が育って夫婦二人になります。
子どもとの生活だけが幸せと思わず、今度は夫婦二人の幸せの花をそこに見つけます。
そこに姑がいれば、姑と一緒に暮らす幸せを見つけます。
姑がいないほうが幸せ、という思いを捨てるのです。
桜の花びらが潔くよく散っていくように、です。

幸せの形は変化していきます。
今あるこの場所に、人生を楽しみながら、
花に学び、花と遊び、幸せを見つけていきます。

そして、その幸せを分かち与えていくところに徳の花が咲いていきます。
そして、できることならば、花の姿に、神仏の姿を見るのです。
きっと、幸せに包まれます。