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法話

不器用な生き方でも尊い 1 みな不器用に生きている

今月から「不器用な生き方でも尊い」というテーマでお話をしていきます。
このお話は「法泉会」というお話の会で語ったものです。
平成24年3月22日のことです。少し書き変えながら進めていきます。

要領のよさ

この演題を決めたのが、私が大病したときです。
私自身、器用に生きていると思っていたのですが、
知らずのうちに病になり、18日間も入院をしてしまいました。

そのとき「ああ、私も不器用な生き方をしているのだなあ」と思ったのです。
でも、不器用でもしっかり生きていれば、何か人生の中で大切なことが得られ、
自分なりに充実した生き方ができるのではないか、
それも尊い生き方ではないかと思い、
そんなことをこのテーマで考えてみたのです。

私は4人兄弟の3番目で、
そのためか小さいころから比較的要領がよいほうでした。
こんな僧堂の時の想い出があります。

私は静岡市にある臨済寺という修行僧堂で修行をしました。
立派なお寺で、庭の高台に無相庵(むそうあん)という茶室がありました、
書院から階段でつながっていて、その階段も木の廊下で、
細かいことは覚えていませんが、階段が30から40段ぐらいあったでしょうか。
そこを毎朝、雑巾で拭き掃除する当番にあたったことがありました。

あるとき修行仲間に
「仁(じん)さんは、どうしてそんなに早く、無相庵の拭き掃除ができるの」
と聞かれたことがありました。
「仁」というのは私の修行時代の名前です。

そこで、
「朝、書院の前にかかっている告報版(その日の予定が書かれている板)を見て、
無相庵で茶会や拝観がなければ、3段飛ばして、雑巾がけをするのよ。
次の日は、飛ばした段を拭いて、3日で全部拭き終わるようにするの。
まあ、茶会や拝観がある時には、ていねいに掃除するけどね。
毎日掃除をしているから、それで充分」

そういうと「仁さんは容量がいいね」と、
少し批判的な眼で見られたことを覚えています。

人生は、そんな要領のよさは通じないでしょう。
あるとき、娘が母親の髪留めを毛糸で編んで送ってくれたことがありました。
ていねいに編んであって、同じように、人生も不器用でも根気よく、
ていねいに生きていくのがよいのかもしれません。

生き方の不器用さ

この僧堂の話は、要領がよいことで、なんとか楽(らく)をしてすまそうという、
少し悪賢い生き方ですが、生き方の中にも器用さと不器用さがあるのです。

生き方が不器用だから失敗したり、人に迷惑をかけたり、
不器用ゆえに泣いたり苦しんだり、時には器用な人をみて嫉妬したり、
とさまざまです。

こんな事件が新聞(平成24年3月)に載っていました。
この人もずいぶん不器用な生き方をしているものだなあと思ったのです。
競艇場で通信簿を付けていたという58才の男性教諭のことです。
通信簿は学校の規則では外に持ち出してはいけないと決まっていたようです。

大阪のある中学校の先生で、
柔道部の大会で3月10から11日に福井県を訪問していました。

ちょうど10日は勤務がなかったので、
教諭は舟券を買ってレースを観戦しながら、
通信簿に10段階評価のスタンプを押していたというのです。

理由は12日に通信簿を配布するのに間に合わないと思ってやった
と言っていました。

それにしても、
生徒の通信簿を競艇場でつけるというのは、あまりにも常識がない行動です。
わかっていてもやってしまう、生徒の思いを大切にできない、
そんな愚かな生き方に、人として生きる不器用さを思います。

人生には失敗あり悩みあり

この世を賢く器用に生きていれば、
失敗もなく悩みも少ない人生をおくれるかもしれません。
でも、多くの人はそうはいかないものです。

生き方が不器用ゆえに失敗したりそれで悩んだり、
どう生きたらよいかわからなくて不幸を思うのです。

今書いている『法愛』は、昔、私がお話ししたものを書き直して文章にしています。
このお話は平成24年にした話ですから、5年ほど前のものです。

当時のお話を聞き返すと、まとまらない所が多々あって、
よくこんな拙い話を聞いてくださるなあと思うのです。
失敗の連続です。

先月2月号の『法愛』も平成23年に話したもので、
当時の話とは全く違ったものになってしまいました。

箱根駅伝の話も、「味噌買い橋」という日本昔話も、
そのときお話ししたものでなく、原稿にするときに、新しく加えたものです。

そんな新しいお話を加えていった結果、紙面の関係で、
当時お話しした大切なエピソードを載せることができなかったのです。
ここで復活させることで、不器用さを補っていきます。

先月の『法愛』でのお話、「幸せを呼ぶ生き方」の最後のほうで、
実際のお話を聞いてみると、こんなお釈迦様の言葉を載せています。
「適当なときに教えを聞くこと」
それが正しい見解を得るひとつの方法であるというのです。

そして「人生には教えがないとイバラの道を歩み、必ず苦しみをなめる。
教えがあれば、イバラの道であっても、教えが幸せの家に導く力となる」と、
お話ししています。

そして次の投書を読み、
あの世のことを信じて生きることが、正しい生き方だと語っています。
「『あの世』を信じて幸せそうな祖母」という題で、48才の女性の方の投書です。

『あの世』を信じて幸せそうな祖母

私の祖母は、明治40年代に生まれた。
そうして明治、大正、昭和、平成と駆け抜けてきた。

祖母から聞かされた話で印象深いのは、
第二次大戦中、33才の祖母がお寺に疎開したときのことだ。
冬の本堂で寒さが耐えがたく、肺炎を患い、臨死体験をしたという。

暑くも寒くもない春のお花畑にいて、
最高の安らぎと幸福感に満たされたそうだ。
ずっといたかったけれど、「そちらの修行が終わってから来なさい」
と観音様らしき方に言われ、戻ってきた。
その方は「私たちが見守っていることを忘れず正直に生きなさい」
ともおっしゃったという。

祖母は92歳まで生きた。
あの世の存在を確信していた祖母。
お棺の中で頬を桜色に染め、楽しい夢でも見ているようにほほ笑んでいた。
お花畑に戻って幸福なんだと、私は思った。

(産経新聞 平成23年9月5日)

臨死体験というと脳が原因で見えているのであって、
そんな世界はないという人もいます。
でも、仏教ではあの世がないと成り立たないのです。

ここでは臨死体験をした祖母が観音様のような人に会い、
「こちらの世界を修行の世界」といい、
「いつも見守っているから正直に生きなさい」と教えています。

これを信じた祖母は、そう生きたのでしょう。
最期はほほ笑んでの旅立ちでした。

少し話をそれましたが、不器用な話の中でも、
何度も省みて、あたかも毛糸で髪留めを編むかのように、
過ごしてきた日々の出来事を、根気よくていねいに振り返っていくと、
失敗の中にも悩みの中にも何か大切なものを見つけ出していくことができます。

人生というのは、器用には生きられないのだけれど、
失敗しながら悩みながら、そのことをていねいにひも解いていくと、
人生の宝をそこに見つけ出すことができるということです。

その意味で、不器用な人生でも、一生懸命に生きている、
その姿が尊いのではないかと思います。

自分への不甲斐(ふがい)なさ

ときどき「自分ってなんて愚かなんだ」という思いに駆られるときがあります。
「不甲斐ない自分だ」。そう思ってしまうのです。

この思いも不器用な生き方からきているのかもしれません。
このことをある映画で考えてみたいと思います。

先日「この世界の片隅に」という映画を見てきました。
漫画ですが、主人公の浦野すずさんの声を、
NHK連続テレビ小説「あまちゃん」で人気者となった
「のん」(本名・能年玲奈)さんがしているのが話題になっています。

簡単なあらすじをお話ししてみます。

昭和19年(1944)2月、絵を描くことが得意な少女、浦野すずが
広島市江波から呉の北條周作のもとに嫁ぎます。

戦況悪化で配給物資も不足するなか、小姑の黒村径子の小言に耐えつつ、
ささやかな暮らしを不器用ながらも懸命に生きていきます。

呉は軍港であったために、
昭和20年3月ころから激しい空襲を受けるようになるのです。

その年の6月22日の空襲のすぎたあとに、
小姑の径子の子である少女、晴美と手をつないで、
軍艦を見ようと海に近づいたとき、通常爆弾に混ぜてあった時限爆弾が爆発し、
晴美の命と自分の右手を失います。

意識の戻ったすずを母親であった径子が
「どうしてあなたが生きているんだ」とせめます。

2か月ほどたって仲直りした8月6日のこと、広島市に原子爆弾が落とされます。
呉からは20キロ離れていたのですが、その閃光(せんこう)と爆撃波が響き、
巨大な雲を目撃します。

翌年ようやく廃墟とかした広島市を訪れたすずは、周作に
「この世界の片隅で私を見つけてくれてありがとう」
と感謝し、戦災孤児になった少女を連れて呉に戻ります。

その戦災孤児の少女が亡くなった晴美と重なって、
家族みんなが晴美が帰ってきてくれたと思い、心癒され、笑顔で暮らす。
そんなシーンで映画は終わりになります。

不器用ながらも一生懸命に明るく生きている、
そんな普通の暮らしの中に、何か尊いものを感じるものがあります。

特にすずが手をつないでいた姪の晴美を亡くしたとき思うのです。
右手でなくて左手であったら、晴美の命が助かったかもしれない。
もし下駄を脱ぎ捨てって、裸足(はだし)で走って逃げたら、
晴美の命を助けてあげられたかもしれない。

そう悩むすずの姿が、自分への不甲斐なさに通じていて、
見ていて可哀そうになります。

みんな器用には、困難を乗り越えてはいけないのです。
不器用ながらも負けずに、その困難をどう克服していくか。
そんな答えをこの映画から教えてもらえます。

生きることがつらい

この映画の中で主人公のすずさんは、晴美の命を救えなかった心の痛みから、
「私が代わりに死ねばよかった、こうして生きるのがつらい」
そう思ったことでしょう。

誰しも一生に1度や2度は、
「生きるのがつらい」という思いをしたことがあると思うのです。

そんな思いになる困難の度合いは、人それぞれで違うと思いますが、
そんなときには不器用でも強く生きていく心構えが大切です。
すずさんのように笑顔を絶やさず生きていく、そんな生きる姿勢が尊いのです。

「不器用な生き方でも尊い」というこのお話しをしたのが、平成24年の3月で、
この年はちょうど東日本大震災が起きて1年が過ぎたときです。

この年の3月11日、千代田区の国立劇場で追悼式が行われました。
天皇陛下の哀悼のお言葉をいただき、
選ばれた遺族代表の3人の方が「ことば」を述べられました。

その中のひとり、
奥田江利子さん(当時47)の「ことば」の一部を載せてみたいと思います。

この津波で長男と長女、父親と母親の4人を亡くしました。
長男は結婚したばかりで、奥さんのお腹の中には子どもさんいたのです。
「長男と私が変わってあげたい」と、そう何度も思ったそうです。

見渡す限りの惨状は地獄だと思いました。

私の大切な家族、
強くて厳しかったけれど、温かだった母。
一家を辛抱強く支えてくれた父。
年の離れた妹を心底かわいがり父親代わりをしてくれた息子。
心優しく、その笑顔が我が家の明かりだった娘。
14年ぶりに授かった娘は家族の宝物であり私の生きがいでした。

受け止めがたい現実、
やり場のない怒りと悲しみ、
そして限りない絶望。

最愛の人を失ったというのに自分が生きているという苦しみ。
「生きることがつらい」と思う申し訳ない気持ち。
生きていることが何なのか。
生きていくことが何なのか考えることさえできない日々が続きました。

最愛の人たちを思う気持ちがある限り私たちの悲しみは消えることがないでしょう。
遺族はその悲しみを一生抱いて生きていくしかありません。
だから、もっと強くなるしかありません。
涙を超えて強くなりしかありません。

(中略)

最後に被災地の私たちを支えてくださった多くの皆さん。
日本全国、世界各国の皆さんに心から感謝申し上げます。
皆さんからの様々な温かな支援が私たちに気力と希望を与えてくれました。
だから今日まで過ごして来られました。

その恩に報いるのは、
私たちひとりひとりがしっかり前を向いて生きていくことだろうと思っています。
さしのべてもらったその手を笑顔で握り返せるように乗り越えていきます。

壮絶な体験をされて、
「生きるのがつらい」と思うことさえ申し訳ないとまで言っています。
でも、多くの人の支えをいただいて、
さしのべてもらった手を笑顔で握り返せるように乗り越えていきたいと語っています。

この長男のお嫁さんに、この震災のあった年の7月、女の子が生まれたそうです。
長男の智史(さとし)と長女の梨吏佳(りりか)の字を一字ずつとって、
梨智(りさと)と名づけたようです。

今年6才になりますね。新しい命が育まれ、時は美しく流れていきます。
不器用でも一心に生き抜いていったら、あの世の世界に帰ったとき、
いに笑顔で再会できることでしょう。

人生を完璧(かんぺき)に生きていくことは、難しいことです。
不器用な生き方でも、今日この日を笑顔で精一杯生きていく。
この生き方が尊いのです。 

(つづく)