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法話

愛語の花びら舞う季節 2 マイナスの言葉

先月は「言葉には力がある」というお話を致しました。続きのお話をしていきます。

相手に対して使うマイナスの言葉

言葉には力があって、それが心にまで染み込んでいくと、
その人の考え方、生き方にもなっていきます。ですから、
どんな言葉を発するかで、幸不幸に分かれていくともいえます。

マイナスの言葉をいつも使っている場合、
またそんな言葉を常に聞いたり読んだりして暮らしていると、
人生は、はたしてどうなっていくのでしょう。
どのように自分の人生が変えわっていくのでしょう。

相手に対して使うマイナスの言葉を挙げてみます。

妄語、悪口、二枚舌、不平不満の言葉、怒りの言葉、
綺語(きご・たくみに飾り立てた言葉)、批判的な言葉、
失望の言葉、やる気のない言葉、人を馬鹿にした言葉

まだたくさんあるかもしれません。

妄語は地獄を呼ぶ

最初に挙げたのが、妄語です。
嘘(うそ)をつくことです。

ずっと嘘をつき続けていると、心も歪んで、
詐欺師のような顔になっていくと思われます。

嘘でよく知られている話が、イソップ物語にでてきます。

あるところにヒツジ飼いの少年がいました。

毎日ヒツジの世話をしていた少年は、その仕事に飽きてしまい、
ある日こう叫んでみたのです。

「大変だ! オオカミが来る。オオカミだあー」

すると村の人が、あわてて集まってきました。
その村人の驚いた様子がおかしくて、少年はまた数日たって叫んだのです。

「大変だ、オオカミだー」

あわてて集まってきた村人は、それが嘘と分かると、
「2度もだまして、なんて奴だ」と、少年を叱り信用しなくなりました。

数日すると、ほんとうにオオカミがやってきました。
少年は今度は、必至で叫びました。

「大変だ! 本当にオオカミが来たー」

村人は少年のことを誰も信用しなくなっていたので、
誰一人として集まってきません。

ヒツジはオオカミに襲われ、大きな被害がでました。

嘘をつくと何を失うかというと、
「人の信用であり、またこの世の財をも失う」ことになります。

嘘をついて、その時は楽(らく)をしたり、儲(もう)けたような思いになっても、
やがてその嘘がばれると、嘘をついた人の損失は、はかりしれないものになります。

よく酒気帯び運転をして、人を撥(は)ね、傷つけて、
恐くなってその場を逃げる人がいます。

後でその事実が分かり、大変なことになります。

捕まったときには、
「俺はそんなことはしていない」と大概、嘘をつきます。

マイナスの言葉が、どれだけ、自分の心も相手をも傷つけるか分かりません。

お釈迦さまは、嘘についてこう説いています。

嘘を言う人は地獄に堕ちる。

また実際にしておきながら
「わたしはしていませんでした」と言う人も同じ。

両者ともに行為に卑劣な人々であり、
死後にはあの世で同じような運命を受ける(地獄に堕ちる)

『ブッダのことば スッタニパータ』(中村元訳 岩波文庫)

この経典を中村元さんの言葉で説明すると、

訳出した『ブッダのことば(スッタニパータ)』は、
現代の学問的研究の示すところによると、
仏教の多数の諸聖典のうちで、最も古いもので、
歴史的人物としてのゴータマ・ブッダ(釈尊)のことばに
最も近い詩句を集成した一つの聖典である。

このように解説で書いています。

お釈迦さまが地獄を語っているのは確かでしょう。

中には、地獄は方便で言っているという専門家(僧侶を含む)もいますが、
そうではないと思います。

嘘をつき反省もしなければ、死んで後に地獄に堕ちるのです。
またマイナスの言葉を使えば、生きているこの時すでに、
心が地獄的になっていくといえます。

一番いけない悪口

2番目に挙げたのが悪口(仏教的には「あっく」という)です。

相手の悪口を言っていると、
なぜか自分のストレスが解消されるような気分になることもありますが、
2度3度と言い続けるのはよくないでしょう。

最近の川柳に
「外は雨 夫はゴルフ 天罰や」(毎日新聞 平成24年6月5日付)
がありました。

川柳ですから、面白おかしく書いていますが、
これももしかしたら、悪口に入るかもしれません。

悪口で最もよくないのが、神や仏に対しての悪口です。
これはとても罪深いと思います。

私たちは、私たちの知らない所で、神や仏に守られているのです。
それを知らないで、「神も仏もあるものか」と言ってしまうのが、
凡夫の私たちであるわけです。

もう一つ、イソップの話をします。「旅人と神」という題のお話です。

一人の旅人が長い旅を終えて、
あまりにも疲れていたので、自分の家に入る前に、
家の前にあった井戸端で、つい安心し寝込んでしまいました。

旅人は疲れていたのでしょうか、
寝たところが井戸端であったので、井戸の中に落ちそうです。

今にも落ちる寸前のところで、神様が現れ、旅人を起こして言いました。

「もう少しで井戸の中に落ちるところでした。
もし落ちていたら、あなたは自分の不注意を棚(たな)に上げ、
『おれはどうしてこんなについていないんだ。この世に神などあるものか』と、
私を呪(のろ)ったことでしょう」

この場合は、神様が現れて、旅人に話かけています。

これは特別なことで、普通は井戸に落ちる前に気が付いて、
「ああ危なかった。もう少しで落ちるとこだった」と思うだけで、
そこには神も仏もありません。感謝の思いもありません。

でも、もしかしたら、神や仏が心配して起こしてくれたかもしれません。

こんな状況が日常の中でたくさんあると思います。

たとえば、車に乗って仕事に出かける時、
今日は普段と違った道を行こうと「ふっ」と思ったとします。

そこで毎日通っていた道を避けて、職場に行きました。
そして普段と同じように、何事も起こらずに職場に着きました。

この場合、驚きも感謝もありません。

でも、このイソップの話を重ねると、
神様が今日は普段の道を行くと、事故に遭うから、
違う道を行った方がよいとインスピレーションで知らせてくれ、
違う道を来たんだと思えば、「有り難いことだ」と神様に感謝できます。

私も車で出かける時、
帰り道は違った道を通ってお寺に帰ってくることがあります。

そんなとき、何も起こらないと、
「きっと神様が、今日はこちらの道を通ったほうがよいのだと教えてくれて、
無事帰ってこられたんだ」と思うことにしています。

すると、神様に感謝できるのです。
そこからは神仏への悪口は出てきません。

神様からの言葉

子を授かるときに、一番願うのが、
五体満足の子が生まれますように、ということです。

でも、すべてがすべて、五体満足に生まれるというのは難しいことです。
昔『五体不満足』という本が出て、多くの人に読まれました。

私の知っている人の中にも、娘さんがダウン症のお母さんがいます。
ずいぶん悩んだと思います。

そんなとき、姑さんが
「田んぼを売っていいから、この子を育てよう」と言ってくれたそうです。

この言葉が、子を育てる力にもなり、
また姑さんを信頼する力にもなったようです。

この言葉は、姑さんが言った言葉ですが、
神様から来た言葉でもあると私は思います。

『心があったかくなる本』という中にも
同じようなエピソードが載っていました。

あるお母さんが女の子を産んだのですが、
この子を産む時に夢を見たのです。

それは牛が子どもの左手に噛みついて、
手を食べてしまったという夢です。

子どもが生まれて最初にこの子を見た旦那さんは、
子どもに左手の手がないことに驚いて、
奥さんにこのことをなかなか言えませんでした。

でも、奥さんの夢の話を聞いて驚き、やっと言えといいます。
「女の子がうまれたんだけれど、左手の指がないんだ」。

それを聞いた奥さんは驚いて、
「可哀そう。育てていけない」と悩みます。

それを聞いたお姑さんが、
「神様からもらった子よ。大事に育てましょう。絶対にいいことがあると思うわ」

この言葉にこの子のお母さんは救われて、
この子を大事に育てるのです。

この子が女子大生になったころ、
「私たち夫婦に学習の場を与えてくれた娘、
そして私たち親子を大きく包んでくれた母に心から感謝します」
と思えるようになったと書いています。

さまざまなことを教えてもらった娘さん、その娘さんを育てる力になったのが
お姑さんの「神様からもらった子」という言葉でした。

これはお姑さんが語った言葉ですが、
もしかしたら、お姑さんを通して神様が語ったのかもしれません。

この出来事をマイナスに受け取ると、
「どうして家(うち)の子ばかりが・・・」となります。
そこには学習もないし、感謝の思いも出てこないでしょう。

必ず常に神仏に守られている私たちですから、
神様や仏様の悪口を言ってはいけないのです。

妄語、悪口と二つの話を致しましたが、
マイナスの言葉を使えば、幸せにはなれないということです。

これは相手へのマイナスの言葉ですが、
自分に対してもマイナスの言葉を使って、
自分が自分を不幸にしていく場合も多々あると思われます。

自分に対してのマイナスの言葉

先にあげたマイナスの言葉の中で、自分に対してのマイナスの言葉といえば、
失望の言葉、やる気のない言葉などが当てはまります。

具体的な言葉を少し挙げてみましょう。

私はドジな人間だ
ダメな人間だ
私なんかいないほうがいい
いくらやっても無駄だ
そんなことできるはずがない
もう駄目だ・いつも不幸だ
幸せなんて来るはずがない
どうして私ばかり
世の中はイヤな事ばかり
苦労ばかりしている
生きていても仕方がない
何度やっても無理
もう頑張れない
生まれてこなければよかった

探せばまだたくさん出てくると思います。

この中で「私なんかいない方がいい」という言葉は、
生きていく力がなくなってくる言葉です。

これは最後の「生まれてこなければよかった」という言葉に通じていきます。
これは生きていくのにとてもきつい言葉ですね。

最も自分をいじめるマイナスの言葉であるかもしれません。

この言葉が自分を苦しめると、
子どもが「なぜ生んだ。生まれたくもないのに」と言うようになります。
あるいは親が子に「お前なんか生まなきゃよかった」となっていきます。

生まれてきた大前提は、みな必要とされ生まれてきたということです。
必要のない人間など一人もいません。

たとえば、非行に走る子のほとんどは、
みな「僕は私は、必要ない人間だ」と思わされ、
なぜ生まれてきたのかという問いが分からず悩んでいるのです。

必要がないから、生きる力を失い、
人生に投げやりになって、人の迷惑も省みない人間になってしまうのです。

そんな子が、老人ホームに行って、
おじいさんやおばあさんのお世話をする仕事を任せられ、
おじいさんたちから手を握ってもらい「本当にありがとう。助かったよ」と言われると、
「僕にもできることがあるんだ。人に喜んでもらえた」と思え、
自らの人としての必要性を感じるといいます。

これは少年たちを支える人から教えてもらった話です。

この世にゴミなどないといいますが、
お寺の本堂に飾ってあった花が枯れてくると、捨てなくてはなりません。

「これはゴミではないか、もう必要ないものだ」と思ってしまいます。

花ばかりでなく、秋に舞ってくる落ち葉も、今は安易に燃やせませんので、
ゴミになってしまいます。

このゴミはどうすればいい、必要のないゴミもあるではないか、と思ってしまうのです。

そんなとき産業廃棄物を扱う業者があると聞いて、
ゴミを収集する大きな箱をお願いしました。

その箱に花の枯れたものや落ち葉、
あるいは壊れた瓶の欠けらや、壊れた食器など入れて、
その箱の中が一杯になると、定められた金額を納め、持っていって処理をしてもらえました。

それを見ていて、「ゴミがお金になる」と思ったのです。

私が必要がないと思っているものを、仕事として処理し、
困っている人の役に立ち、しかも生計を立てている人もいるのです。

そのことを知ると、
やはり「この世に必要ないものは、一つもない」ということを教えられました。
ましてや私たちに人間に、必要のない人など一人もいません。

「自分は必要のない、生きていても仕方ない」
とマイナスの言葉で自分を責めないでください。
「生まれてこなければよかった」と、責めないでください。

人間はとても尊い存在なのです。

(つづく)