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法話

自分をつくる 1 自分とは何か

今年も12月。今年最後のお話は「自分をつくる」です。
毎月読んでくださってありがとうございました。

自分を知る

自分とは何ですかと問われたとき、どう答えるでしょうか。

まず、自分をよく知っていることが大切です。
知っていれば、不安もありませんし、
また自分を充分生かしきることができるからです。

たとえば鉛筆は、書くためにありますね。
鉛筆を何のために使うのかを知っていれば、
何の心配もなく使うことができますし、捨ててしまうこともないでしょう。

もし使い方を知らなければ、そのまま机の引き出しに仕舞い込んでしまうか、
捨ててしまうこともありましょう。

この原稿はパソコンを使って書いていますが、
パソコンの操作方法を少し知っているので、不安にならずに書いています。

このパソコンにもさまざまな使い方があって、私は充分その使い方を知らないので、
パソコンを生かしきっているとはいえないかもしれません。

この自分も同じで、自分とは何か、何のために生きているのかを知っていなければ
充分な働きができないし、どのように生きていけばよいかも分からなくなってしまいます。

「汝(なんじ)自らを知れ」という有名な言葉があります。
古代ギリシャのデルポイにあるアポロン神殿の玄関の柱に刻まれていた言葉
だそうです。

紀元前4世紀ごろに活躍したソクラテスという哲学者が、
この言葉を哲学的に探究したというのは有名です。

では自分とは一体何でしょう。

自分とは名前でしょうか。

 名前にも同姓同名の人がいます。
 同姓同名でも、その人の人柄や身長、生き方も違います。

 結婚したり養子にいけば、名前も変わってきます。
 自分の名前を自分自身で付けた人はいないでしょう。

 自分自身が付けたのではない名前が、
 自分自身であるというのもおかしなものです。

肩書きは私でしょうか。

 今私の肩書は護国寺の住職ですが、
  年を取って、引退すればこの肩書も取れ、ただの人になります。

 温泉なんかに行って裸になれば、肩書どころか、みな同じような人に見えます。
 どうも肩書も私自身ではありません。

ではこの肉体(身体)はどうでしょうか。

 肉体といっても、常に変化しています。
 赤ちゃんのとき、小学生のとき、成人したとき、
 30代の働き盛りのとき、還暦をすぎて少し年を取ってきたとき、
 80代のおじいさん、おばあさんになったとき。

 みな姿が違っていて、そのときどきに写した写真を見ても、
 どれが本当の自分かわかりません。

 人は亡くなると、その肉体を亡き骸(なきがら)といいます。
 「死んで魂が無くなった体」という意味です。

 枕経やお通夜のお経にいって、亡くなった人の亡き骸に手を触れると冷たくて
 動かなくて…。この肉体、亡き骸がこの人自身であるとは思えないわけです。

 もし、肉体がその人自身であれば、死して後、
 人は灰になってあとかたも無くなってしまうことになります。

 この肉体も私自身を知る一つの材料にはなりますが、
 ほんとうの自分ではないような気がします。

心の働きがその人自身

亡くなったときに、私はいつもその人がどういう人であったかを聞いたり、
「故人を偲(しの)ぶ言葉」という紙をお渡しして、その人の性格や人柄を書いてもらいます。

たとえば87才で亡くなられた、あるおじいさんは、
次のように家族の人たちが書いくれました。

まじめな人で、いつも笑っていました。
何事にも真剣に取り組み間違ったことが大嫌いな人でした。

融通のきかないところもあったけれど、思いやりのある人でした。

子どもや親族のことを気にかけ、
朝からみんなの無事を祈ってくれる人でもありました。

ここに出て来たおじいさんの人柄は、抽象的で目には見えません。
見えませんが、おじいさんの姿が見えてきます。

まじめな心を持った人、
何事も真剣に取り組む心を持った人、
間違ったことが大嫌いである心を持った人、
思いやりのある心を持った人。

そんなおじいさんの姿が理解できます。

こう考えてくると、「心のありさま、あるいは心の働きが、その人自身を決めている」
といってもいいかもしれません。

このおじいさんにも名前がありましたが、その名前でなくて、
「まじめで思いやりのある人」が、このおじいさん自身であるといえます。

人それぞれですから、中には怒りっぽい人、勝気な人、貪欲な人など、
それも心のありさまを現わしていて、その人自身であるといえます。

私はお坊さんをしていますが、日本の中だけでもたくさんのお坊さんがいます。

それらの人はみなお坊さんですが、
それがその人自身を現わしているのではありません。
どのような心を持ったお坊さんかで、その人自身が現わされるわけです。

たとえば、勤勉なお坊さん、優しいお坊さん、穏やかなお坊さん、
生臭いお坊さん、勝手なお坊さんなどです。

この「どのような人か。どのような心の働きをしている人なのか」というのが、
その人自身になるわけです。

ですから、心のありかた、心の働きで、自分自身を言い表すことができるのです。

この心をつくっていくことが、自分自身をつくっていくことにつながっていきます。

このことは会社などにもいえましょう。

家をつくる会社はたくさんありますが、
どのような家をつくる会社なのか、どのような考えを持って家をつくっているのか、
どのような考えをもった人たちが集まって家をつくり売っているのかで、
その会社自身の姿が見えてくるわけです。

自分をつくる 2 原因結果の法則

正しい心には正しい結果が現れる

心の持ち方がその人自身を決めているというお話をしました。

そのために何が必要かというと、
心を正しく養っていくことが大切になってくるわけです。

心を養うために必要なひとつの考え方は、
原因結果の法則をよく知っているということです。

正しい心を持った人は、正しい結果が得られ、
悪なる心を持った人には、悪なる結果が現れるということです。

次の投書は、聴覚障害のある女子高生をアルバイトに採用し、
その結果得られた喜びの涙を上手に書いています。

正しく善い心、善い行為は、やがて善なる結果を招くのです。

64才の男性の方のものです。

10年ほど前、スーパーの店長をしていた時、
聴覚に障害を持った女子高生がアルバイトに応募してきた。

接客業であることを理由に不採用を伝えたが、
翌日、彼女の叔母に、無給でもいいからと懇願された。

その必死の思いにひかれ、私は採用を決めた。

彼女は小中学校でいじめに遭っていたという。
自分を成長させる経験にしたかったのだろう。

高校を卒業するまで一生懸命働いてくれた。

8年が過ぎた今年、突然彼女から結婚式の招待状が届いた。
出掛けてみると、なんと主賓だった。

私は涙ながらにあいさつをし、彼女も目に涙を浮かべながら話を聞いていた。
帰りの電車でも、私は流れる涙を抑えきれなかった。

読売新聞 平成22年7月22日付

どんなあいさつをしたのか、聞きたかったという思いがわいてきます。

きっとアルバイトをした3年間、彼女も店長も大変だったでしょう。

でもお互いに理解し合い、彼女は聴覚障害を乗り越えて、
難しい接客業をこなしました。

その努力が、彼女を一人前の人として、また魅力的な女性に成長させたのです。
その結果、結婚という幸せを得たと思います。

また、「無給でもいいから」という叔母さんの必死の思いをくみ取ってあげた店長の
心の広さと、3年間、彼女を見守ってきた店長の善の思いが、
結婚式に呼んでもらって涙を流すという幸せに通じていきました。

この涙は何ものにも代えがたい幸せの涙です。
幸せいっぱいでも、涙が出るのですね。

正しい心で行ったことには正しい結果が現れるという、そんな投書です。
よく味わってほしいお話です。

縁を生かす

原因結果の間には縁というものがあります。
原因があって、何かの縁があり、結果がでてくるということです。

先ほどの投書では、女子高生の叔母さんの真剣なお願いという縁があって、
店長は彼女を採用したわけです。

この縁を知り、おそらく彼女は叔母さんに感謝の思いを抱いているでしょう。
そんな縁を大切にすることも、この原因結果の法則を上手に使う方法でもあります。

柳生家の家訓の中に、才の三段階として、

小才は、縁に出合って縁に気づかず
中才は、縁に気づいて縁を生かさず
大才は、袖すり合った縁をも生かす

こんな家訓があるようです。

縁をいかに生かすかということです。

自分をつくっていくためには、
縁で出会った人たちや、さまざまな出来事の中に、
いかに大切な縁があり、その縁に気づいて上手に使っていく人が、
また素晴らしい自分をつくっていける方法でもあるわけです。

昔大阪の人でしたが、この伊那の地で急に亡くなられた方がいらっしゃいました。

たまたま私のお寺と大阪のお寺さんとが同じ宗派なので、
私のところでお葬式をあげてくれないかというご依頼でした。

縁もゆかりもない人の葬儀なので、あまり気が進まなかったのですが、
承諾して枕経に行きました。

お経を読みながら、亡くなった方を見ていると、ふと思ったのです。

「この人とは縁もゆかりもないと思っていたけれど、
 こんなふうに私がお経を読むというのは、何かの縁があるんだ。
 そうであれば、心をこめて送ってあげなくては・・・」と。

そう思うと、私なりに誠実な思いがわいてきて、お経も心がこもったのです。

葬儀の最後の法話の中で、正直にこのことをお話し致しました。

私は初め葬儀を依頼されたとき、
何の縁もない方の葬儀で、少し大変な思いを持ちました。

でも枕経のとき、お経をあげていると、
この方にこうしてお経をあげられるのは、何かの縁があってのこと。
ですから大切に送ってあげなくてはいけないと思ったのです。

こうして今日このみ堂で、何人かのお坊さんが、
亡き人のために一生懸命お参りをさせていただきました。

私たちよりももっと深い縁があって集ったみなさまならば、
もっと大切に亡き方を送ってあげなくてはならないと思います。

どうぞ、み仏様のご加護を念じ、
心こめて浄土への旅立ちを共に祈ってあげましょう。

私としては袖すり合った見知らぬ人から、
誠実に送ってあげるという学びをいたしました。

そんな出会いと出来事のなかから、
人としての大事なものを学ばさせていただいたのです。

縁で深いのは、家族のみんなです。
最近家族の子育てにおいても介護においても、
その不和が報道されているのが目立ちます。

家族というのは、みんな縁あって結ばれた人たちですから、
互いに学び合って、その縁を生かしていくことがとても必要に思います。

自分をつくる 3 心の思いが自分をつくり世界をつくる

心に思っていることが自分自身で、
できればプラスの思いを常に抱いて、自分つくりをしていくことが大切です。

そしてこの一人ひとりの思いが重なり合って、家族ができ会社ができ、
また社会があるといえます。

家族でも、みんなが感謝を大切にし、
「ありがとう」の言葉を、日々忘れないで過ごせば、
その家庭は平和でほほえみをたたえた家庭になりましょう。

実際にそんなあたたかな家庭も多いのです。

ニュースでは悪なることの報道ばかりですが、
投書で紹介したような、心のあたたかな人がたくさんおられます。

おそらく投書に出てくる女子高生の家族も、
障害を持った女の子が生まれてずいぶん悩まれ苦労されたことでしょう。

その苦労を家族の和で克服され、結婚と言う幸せを手にしたのだと思います。

あるいは会社でいえば、
自分の会社を発展させようと思う人が7〜8割いれば、
その会社は発展していく可能性が大きいでしょう。

そうではなくて、
ただ会社から給料をもらえばいいと思う人が7〜8割いれば、
その会社の発展は望めないかもしれません。

この日本の国もそうです。

かつて戦争で悪いことをした、
だからこの国の人はみなダメな人で、近隣諸国に謝り続けなくてはならない
という人が5割を超えれば、この国は衰退していくでしょう。

そうではなくて、かつての戦争をいい学びとし、
この国をみんなが愛し、素晴らしい国にしていこうと思う人が5割を超えていけば、
よい国になっていくのです。

心でどう思い、心がどう働いているかをよく見定め、
自分をつくっていう必要があります。

そして、善なる人が一人でも多くなっていって、
家庭も社会もみな幸せになっていけることを、師走のこのとき、深く思います。