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法話

釈尊の願いに生きる 1 教えの意義

先月は心の中に入り込む毒ヘビがいて、
その毒ヘビにかまれると理性を失い愚かな行動に走り、不幸になっていく。
その毒ヘビを退治する剣(つるぎ)が教えである。
そんな話でした。続きのお話をしていきます。

苦行と贅沢(ぜいたく)

毒ヘビを退治するために、どんな方法があるのでしょう。

まず考えられることは、苦行をすることです。
次に豊かで贅沢な暮しをすること。
次に超能力を使うこと。
そして教えによって心を正すことがあげられます。

お釈迦様は、29才の時に釈迦国を出て、苦行を6年間されました。
激しく肉体を傷める修行です。

当時の苦行は次のような意味がありました。

私たちは肉体と精神からなっていて、
精神が肉体の束縛を受けていると自由な活動ができなので、
その肉体の力を苦行で弱めるのです。

すると精神が浮き出してきて理想的な働きができるという理論からだそうです。

息を止めたり食を断ったりと、さまざまな肉体を痛める苦行をされました。
一般の人では考えられないような修行生活をしたのです。

比叡山で回峰行という修行があります。
私も若いころに一日回峰行という修行を一度体験したことがあります。

真夜中の1時ごろ出発をし、山々を巡り歩き、
各所にある諸堂をお参りしながら、朝方帰ってきます。約32キロほどの道のりでした。

その体験のなかで、千日回峰行をされたお坊さんのお話を聞きました。
千日の中で9日間、お堂に籠って断食をする修行があったようです。

そのときに、思ったことは、
お堂の中央の仏様の前にリンゴが供えてあって、その香りがずっと匂ってきて、
「食べたくて、食べたくてたまらなかった」と言っていました。

苦行して断食をしたけれども、
食べたい欲はさらに増したと正直に語ってくれました。

そのとき、
「苦行するなかにも、大きな欲(毒ヘビ)がでてくるのだなあ」
と思ったことでした。

お釈迦様は6年間苦行をしましたが、
この苦行では悟りは開けないと結論づけました。

その縁(よすが)となったのが、農夫の歌であると言われています。
こんな意味の歌です。

琵琶の弦(げん)は強くしめると切れてしまう
弱くしめれば音色が悪い
琵琶の弦は中ほどにしめると音色がよい

この歌の意味を、苦行に置き換え、深く考えられたところに
お釈迦様のすぐれたところがあると思います。

かつて王子として釈迦国にいたときは、大変贅沢な暮しをしていました。
妻も何人もいましたし、別荘もあり、食べ物も大変美味しいものを食べていました。

そんな贅沢な暮しの中でさえ苦しみはあり、
心の内に入り込む毒ヘビを感じていました。
そんな生活からは真理は発見できないと思い、苦行に入ったわけです。

琵琶の歌からいえば、苦行は弦を強くしめることで、
贅沢な暮しは弦を弱くしめることになります。

苦行からも豊かで贅沢な暮しのなかからも、悟りは開けず、
その中ほどに悟りはあると感じられました。

弦でいえば、中ほどにしめて良い音色が出てくるのです。

日常の生活のなかに悟りがある

お釈迦様は苦行を捨て、身体の健康を取り戻して、
菩提樹の下で坐禅瞑想され、12月の8日に、大いなる悟りを開かれます。

極端に自分を苦しめる修行の中にも、
ありあまる豊かで贅沢な生活の中にも悟りはなく、
普段の日常の生活のなかに悟りがある感じられたわけです。

苦行を捨てたことが、仏教が世界的に広がっていった要因であると言われています。

菩提樹の下で思索し得た一つの境地は、
人にはさまざまな心の動きがあり、
ある心の思いを持って生きていると不幸になっていき、
別の考えを持って生きていると幸せになっていける。

だから、不幸になっていく思いをどう正していったらよいのか、
正しながらどのような考えで生きていったら人格が向上し悟りが深まっていくのかを、
あたかも心の設計図を見るかのように観じとられたわけです。

不幸にさせる思いはどんな思いであろうか。
貪欲さや怒りの思い、不平不満をいつも抱いている愚かな思いであろう。
それが毒ヘビのように心を這(は)いまわり、人を不幸にしていくのだ。

この毒ヘビを退治するためには、
正しく生きる考え方を心のなかに宿していくことが大事である。
そう思索されました。

正しく生きる考え方が、心のなかに染みわたっていくと、
毒ヘビも近づけない心の世界を作り上げていくことができる。
その正しく生きる考え方が「法」(ほう)すなわち教えとして説かれていったわけです。

悩みや苦しみは、日常の暮らしの中にあるのですから、それを教えによって、
悪い思いや考え方を排除して、心を正していき、幸せを得ていく。
これが唯一の幸せを得る方法であるわけです。

苦行や贅沢な暮らし、また超能力によって、
心の中にある毒ヘビは退治できないということです。

人の人生はさまざまですから、AさんにはAさんの悩みがあり苦しみがあります。
ですからAさんにあった正しい考え方、教えを説かれ、同じようにBさんにはBさんの教え、 CさんにはCさんに合った教えをお釈迦様は説かれていきました。

これを対機説法といいますが、
このような説き方をされたので8万4千と言われるほどのたくさんの教えができ、
それが多くの経典として残っていったのです。

教えの受け取り方

その教えをどのように私たちは受け取っていったらよいのでしょう。
仏典のなかに「名医の薬草」というお話があります。こんなお話です。

ジーバカというお医者さんがいました。

お釈迦様が活躍されていた時の名医で、
漢訳では耆婆(ぎば)と言います。

仏弟子の病気を治し、
阿闍世(あじゃせ)という王をお釈迦様のもとへ導いたとも言われる人です。

ジーバカは薬草に詳しく、
どんな病気になっても、適切に薬草を示し、調合して、
多くの人の病気を治しました。

そんなジーバカにも命尽きる日が近づいてきました。

多くの患者さんたちが、
「先生がいなくなったら、私たちはどうすればよいのですか」と聞きます。

ジーバカは言いました。

「心配することはない。
ハリーターキーという薬草を飲めば、どんな病気でも治る。
しかし、この薬を飲めば必ずどんな病気も治ると信じて、
しかも自分の手で飲まなくてはなりません」
と語りました。

このハリーターキーという薬草は、日本でも室町時代に使われていたそうです。

この短いお話に出てくるジーバカというお医者さんは、
お釈迦様にたとえられています。

お釈迦様が苦しんでいる人に、それぞれの苦しみを除くことのできる教えを調合し、
伝えていった、ということになります。

そしてお釈迦様が亡くなられる時に、
「私にはさまざまな教えがあって、その教えを信じて聞き、
自分自身がその教えにそって生きれば、毒ヘビに噛まれることなく幸せになれる」
と説かれたということが、この話には隠されているのです。

教えの受け取り方として、教えを学び自分のものにすれば、
必ず苦しみが解決していくのだということをまず信じることです。

信じて次にその教えにそって実際に生きいていくということになります。

たんなる教養として受け取るのでなく、
薬草を飲めば病気が必ず治ると信じていただくように、
この教えをいただけば必ず苦しみを解決できると信じることなのです。

(つづく)