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みにミニ法話

(291)「耐えて喜びみつ」

耐え忍ぶ人生は、できればさけて、日々を安楽に楽しくすごしたいものです。

しかし、人生はそうはいかないものです。なぜでしょう。
それは生まれてきた理由にあります。

この世は濁世(じょくせ)と仏教では表現しています。
濁った世というのは、楽しみのほかに苦しみがたくさんあるということです。

子どものときには勉強をしなくてはならず、
勉強のできない国では小さいころから働かなくてはなりません。
大人になっても寝て暮らすことはできません。嫌でも会社にいって働き、
今日の食べ物を稼がなくてはなりません。

老いては明日の不安を思い、
あるいは病気で寝込んだり介護される心配も起こってきます。
最後は死の不安。そう考えてくると、苦の多い人生といえます。

この苦しみは木々の年輪ににて、人の心を引き締め、人格向上へと導いてくれます。
年輪をたくさんもつ木は固くしっかりして、家の柱に最適になります。
苦を乗り越えた人の人格は、しっかりしいて人の役立つ生き方ができるようになるわけです。
そんな目的をもってみな生まれてきたのです。

しかし、濁世といっても喜びはあります。
耐えて困難を乗り越えていくと、そこに得られるものは喜びであり、幸せでもあります。

こんな詩を見つけました。「未来」という題で、19歳の女性が書いた詩です。

「未来」

早朝の プラットホームに 老夫婦が佇んでいる
肩を寄せ 手を繋ぎ 少し丸い背中も似て
滑り込む電車の向こう 朝日がふたりを照らす
ああ私も いつの日か 彼等の行き先に
辿り着けるでしょうか

(産経新聞 平成29年1月27日付)

こんな詩です。

19歳といえば、まだ結婚もしていない年でしょう。
そんな彼女が見たものは、おそらく苦労を共にしてきた夫婦が、
耐えて生き抜いて、今は幸せの光に包まれている。
そんな幸せな晩年を見て、私もこんな幸せの時を得られるでしょうかと、
自らに問いかけています。

19歳、これからの人生ですが、耐えて生き抜いて、
縁で出会った人たちと、手を取り合って支え合っていけば、
必ずこの老夫婦のように、喜びみちて、肩を寄せ、幸せな光に包まれる日がきっとくるでしょう。

この喜びを得るのも、生まれてきた理由なのです。