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法話

よい人生であったと思えるために 1 幸せを育てる

今月から「よい人生であったと思えるために」というテーマでお話を致します。

このお話は平成28年2月9日、
ある町の社会福祉の「終活」をテーマにした講座でお話ししたものです。
時間がずいぶん経過していますので、少し手直ししながら、3回ほどにまとめてみます。

今、亡くなったとして

昨年(平成27年)、ある公民館でお話ししたとき、
50分過ぎた頃、私の話を聞いていたある女性が急に倒れ、
救急車で運ばれていきました。

話の途中でしたので、大変驚いたのです。
後で倒れた方の様子を聞くと、
私の話をあまりにも真剣に聞いていたので、
それで倒れてしまったというのです。

どうぞ今日お聞きの皆さんは、話を真剣に聞かないでください。
適当にお聞きください。疲れたら寝ても結構です(笑い)。

それではお話の前に、皆さんに質問をします。

今、もし、みなさんがここで亡くなったとします。
そのとき、1番「ああ、とてもいい人生であった」と思うか、
それとも2番目、「まあまあ、いい人生であった」と思うか、
もうひとつ3番目として「最悪の人生であった」と思うか。
さあ、どの思いにあてはまるか、手をあげていただきます。

1番の人、手をあげてください。3分の1ほどいますね。
2番であると思う人、手をあげてください。たくさんの人が手をあげています。
では3番目はどうですか。あそこに1人いましたよ。
その人は今日、真剣に話を聞いてください(笑い)。

今日、ひとつの幸せ

では、今まで生きてきて、
幸せであった日と幸せでなかった日を計りにかけてみます。

幸せの方が重いという人は、いい人生であったのです。
幸せでない方が重いという人は、あまりいい人生ではなかったことになります。

1日1日の積み重ねで、人生の幸不幸が決まってくるので、
幸せの日を1日でも多く、作っていくことが大切になります。

その方法として、ひとつ挙げてみると、
今日1日何かひとつでもいいことがあれば幸せであったと思うことです。
いや、2つなければ幸せでない。いや3つなければ幸せにはなれない。
そう思っていると、なかなか今日の日を幸せの日とすることは難しくなります。

ですから、欲を少しおさえて
「幸せな事が、ひとつあれば幸せだった」。そう思うのです。
そう思い生きていき、幸不幸を計りにかけると、
幸せの日が、ずいぶんと多くなっていくのです。

たとえば、今日いろいろなことがあったけれど、
ここに来てお話が聞けた。それだけで幸せ。そう思うのです。
今日ここに来て、たくさんの人に会えた。それだけで、今日は幸せだった。
今日の日の中で、幸せをひとつでも見つけることができれば、幸せであった。
そんな生き方が大切に思います。

幸せに埋もれ

川柳にこんな句がありました。

幸せに埋もれて愚痴をこぼしている

人はとかく同じ環境にいると、感覚が鈍くなる傾向があるのです。
幸せの中にずっといると、その幸せが尊いものだとわからなくなるのです。

いつか佐渡から長野県のお寺に来られた、
和尚さんの話を聞いたことがありました。

佐渡といえば、海に囲まれた島です。
ですから、海はもう見たくないと思うほど、毎日海を見ていたというのです。
こちらの長野県にくると海はありません。
長らく長野県に住んでいると、あれほどもう海は見なくてもいいと思っていたのが、
海が見たいと思うようになった。そんな話をしてくれました。

海がすぐそこにあれば、その環境になれて、しだいに海への思いが薄れてきます。
ところが、そんな人がしばらく海を離れると、海への思いが深くなるのです。

幸せの海がいつも見られる環境にいると、
その幸せが薄れてくるのが、私たちの悲しい性(さが)かもしれません。
そして、たまには幸せの山が見たいと愚痴がこぼすのです。

あきない食事

新年にお寺に挨拶に来た、男性の檀家さんと話をしたときのこと。
その人の奥さんが病気で入院をされたというのです。

食事のことは奥さんまかせで、台所に立ったことはない人でした。
そんな奥さんと二人暮らしで、奥さんが入院して家にいないのです。
当然、食事を作ってくれる人はいません。
自分でも、どう作っていいかわかりません。

そこで、コンビニやスーパーで弁当を買って食べていたといいます。
初めの内は美味しくいただいていたのですが、
すぐあきてしまい、大変な思いをしたというのです。

そういえば、お店には美味しそうなお弁当がたくさん並んでいます。
たまには、そんなお弁当もいいのですが、毎日頂いていたら、
誰でもおそらくあきてしまうと思います。

家で食べる食事はどうでしょう。
たとえば、私の家での朝食は、玄米を五分搗きにして、
16穀米を入れ焚いたご飯を食べます。
それから味噌汁に、漬物、納豆にしらす、温野菜、
時には果物をいただきます。

毎日ほぼ同じです。でも、あきません。不思議です。
どうして同じものを毎日頂いて、買ってきたお弁当と違って、あきないのでしょう。

よく考えてみると、食事を作るときに、
この食事をいただくことで健康を維持できるようにとか、
美味しくいただいてほしいとか、食べる人のことを考え、
思いやりを込めて作るから、きっとあきないのです。

僧堂で修行している時、典座(てんぞ)と言って
半年ほど食事当番をしたことがありました。24名ほどの食事を作りました。
作った人は、2番座といって、みんなが食べた後に、いただきます。
そのとき、最初に食べる人のことを考え、美味しいところを出します。
自分は粗末でも、みんながおしく食べてもらえば、満足でした。

家で食事を作る人も、家族のみんなが美味しく食べていただけるように思い、
味はもちろん盛り付けも工夫して出します。
自分といえば、みんなが美味しく食べていただければと、
粗末な盛り付けでも気にしません。

その食事には、作った人の思いやりは見えませんが、
同じ食事でもあきないというのは、そこに思いやりの心が入っているからです。

食べる人は作った人の思いやりを感じ取っていくと、
そこにひとつ幸せが見えてくるのです。

幸せに埋もれてしまわないためにも、
相手の思いやりをくみ取っていけば、幸せがよく見えてきます。
ですから、自分自身も思いやりの心を培っていくことで、
さらに幸せの世界が見えてきます。

置かれた場所で幸せを見つける

幸せは遠く山の彼方(かなた)にあるのでなく、
自分の置かれた場所にあるということです。

自分が暮らしている家という場所に、
いつも暮らしているので幸せ感が薄れてくるのです。
前に書いたように、人はとかく同じ環境にいると感覚が鈍くなって、
幸せの中にずっといると、その幸せが尊いものだとわからなっていくのです。

春になると、お寺のまわりにスミレが咲き出します。
本堂の薄暗いところにもスミレが咲きます。
裏庭の少し柔らかな土の所にもスミレが咲きます。
雑草が生えた堅い土の中にもスミレが顔を出しています。

お寺の裏山に散策できるようにと、野の花観音が立っています。
その観音様のそばにもスミレが咲いています。

どこに咲いていても、スミレはあちらの日当たりのいい場所がいいとか、
観音様の近くがいいとか、そんな文句をいいません。
その場所に咲いて、ほほえんでいます。

スミレから教えてもらうことは、
「自分の置かれた場所に幸せを見つけたら、幸せになれますよ」
と、いうことではないでしょうか。

ひとり暮らしでもいい。2人でもいい。家族5人でもいい。
その暮らしの中で、ひとつ幸せをみつければ、
「ああ、今日は幸せだった」。そう思えば、ほほえみを忘れることはありません。

私は宝石

スミレの花は自分自身のことをどう思っているかわかりませんが、
私たち人間は、自分のことを、どういう人間かはある程度はわかると思います。

「自分はダメな人間だ」とか、
「少しはいいところもある」、
「何をしてもまともには出来ない人間」、
「少しきついところがある」、
「怠けものかもしれない」
「努力するほうだと思う」など、
さまざまに自己判断ができるでしょう。

そこで、人はみな光り輝くものを内に秘めている
と考えたほうが幸せになれます。

かつてノートルダム清心学園の理事長をしていた渡辺和子さんの著書の中に、
『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎)という本があります。

そこに、こんなことが書かれています。
渡辺さんの60年前のことで、20代のころでしょう。
当時、英語力も貧しく、初めての職場経験ということもあって、
仕事も一人前ではなくそんな時の出来事です。

そんなある日、仕事の上司でもあったアメリカ人神父が私に、
「あなたは宝石だ」といってくれたのです。

兄や姉に比べても、劣等感を持ち、
自分は「石ころ」としか考えていなかった私は、一瞬耳を疑いました。
しかし、この言葉は、それまで生きる自信のなかった私を、
徐々に〝丈夫〟にしてくれたのです。

「石ころ」だと思っていたのに、あなたは「宝石」だと言われ、
生きる自信がついてきたと、書かれています。

仏教でも、私たちの心の中に、仏と同じ心(仏心)をもっていると教えています。
仏の心とは宝石に似て、人として尊い思い、力といえます。
そんな心が自分の内に備わっている。そう思えば、
幸せを自分自身で作り出すことができる、そんな力をもっているのです。

宝石のような居場所が、自分自身の中にある。
このことを知っているだけでも、よい人生を生きる力になっていきます。

幸せはシンプル

シンプルというのは簡単とか単純なさまをいいます。
幸せは複雑ではありません。哲学的に難しく考える必要がないのです。

「あきない食事」のところでも書きましたが、
食べられる、そのひとつのことをとってもすでに幸せであるわけです。

1万円ほどする食事でも、お茶漬けでも、食べられれば幸せなのです。
水道から水が出て、その水を飲むことができる。それだけで幸せです。
人と語りあえたり、この会場に来られるだけでも幸せです。
お風呂に入ること。テレビが見られること。同じ布団で寝られること。
鳥の声を聞いたり、風に吹かれること。それさえも幸せであるわけです。

そんな幸せをかみしめ、「ああ、いい人生であった」と思える。
そのように受け取って暮らすことが、よい人生を得る秘訣です。

排便もそうです。
昔、迷子になった猫を可愛そうにと思い、飼ってあげたことがありました。
しばらく姿を見ないので、どうしたのかと思っていると、
庭で苦しそうに、うずくまっているのを見つけました。

猫の様子をよく見ると、お腹がふくれています。
何かの事故にあったのではないかと思い、獣医さんに見てもらいました。

獣医さんの話では、おそらく車かひかれてか、
便や尿が出ない状態になっているというのです。
そこで、一日入院をして手術をしてもらいました。

手術の結果、無事排便ができるようになって、健康を取り戻したのです。
迷子の猫にずいぶんお金がかかりましたが、
元気を取り戻した猫を見て、安心しました。
排便ひとつとっても、有り難く幸せなことなのです。

ですから私は、「うんち」さんにありがとうをします。
そして大腸さんや直腸さん、肛門さんに、
「お世話になりました。ありがとうございます」と感謝するのです。

今が幸せであれば

人生には苦しみも悲しみもあります。
誰しもが、その暗いトンネルをくぐりぬけなくてはなりません。
トンネルをぬければ、太陽が輝く世界に出ることができます。

今が幸せであれば、昔、闘った苦しみや悲しいは、
今の幸せを作り出してくれた出来事であったと思うのです。
苦しみや悲しみを長く引きずらないことです。

たとえば、自分が持っていないものを相手が持っていて、
それが妬(ねた)ましく思い苦しい、という場合があります。
私でも、昔、芥川賞を取った坊さんがいて、
その人とは同じ宗派で、時々本山であったことがありました。

でも、この賞をもらった彼は、もう手の届かないところにいます。
このことを考えると、少し妬ましく、それが苦(く)にもなります。

でも、今自分なりに活動して、
それが幸せであれば、よいのだと思っています。

ある人生相談で、50代の女性でした。
義妹が妬ましく苦しい。
息子はいるのですが、遠方で働いていて、いつも家にはいない。
本当は娘が欲しかったのに授からなかった。
その義妹には娘がいて、自分の家に義妹が来て、
その娘と仲良くおしゃべりしているのを見ると羨ましく、
そんな幸せな家族を見ると、涙が出るほど悔しい思いになるというのです。

でも、立派な息子さんがいて家庭も安定している。
もっと自分の今の幸せをかみしめ、感謝する思いが大切で、
できれば義妹の娘と仲良くすればいいのです。
そのために、この女性が幸せなほほえみを抱いて生きていけばよいのです。

今が幸せと思えば、幸せが引き寄せられてくるのです。
妬ましい思いを切り替え、「よかったね。私も今とても幸せです」と思うと、
よい人生が輝き出します。

(つづく)