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みにミニ法話

(287)「豊かな生き方」

豊かな生き方をするためには、豊かな生き方を肯定しなくてはなりません。
豊かさを認め、自分もそうありたいと思うことです。

清貧という言葉かあって、
これは「貧しくとも心が清らでありたい」という意味ですが、
その精神はとてもよいことだと思います。

良いと思いますが、そう思っている人は豊かにはなれません。
貧乏を肯定して、豊かな生き方をしたいという思いが、そこに入っていないからです。

あるいは「貧乏暇なし」という言葉を使う人もいます。
暇がないほど働いているということはよいのですが、
貧乏が上についているので、いくら働いても豊かにはなれません。

豊かな生活ができ、
忙しい日々の中でも時間を見つけ出して、自分の趣味を生かす。
そう思っていれば、そのような暮らしができてきます。

ですから要は「豊かでありたい」と、いつも念じ思っていることです。

あるいは隣の人が豊かそうな暮らしをしている。
そんな時には、「隣の人が豊かであるのは、許せない」
という嫉妬の思いがあると、豊かにはなれません。

それは隣の人のように本当は豊かになりたいのですが、
それを否定した言葉になっているからです。

この否定した言葉は、豊かさを否定した思いからでているのです。
ですから、豊かになれないのです。

精神的には、どのように気をつけていったらよいのでしょう。

ある年の9月の月の言葉は、
「不満の心に貧乏神がすみ、感謝の心に福の神がすむ」でした。
いつも不満に思っていて、
それを言葉に出し、行動に出していると、決して豊かになれません。

なぜならば不満の思いを貧乏神が非常に好んで食べるからです。
ですから、不満を食べる貧乏神にとって、
日々の食(しょく)に困りませんから、ずっと住みつかれてしまいます。

その逆に、貧乏神か嫌う思いは感謝の思いです。
いつもありがとう、支えられ生かされています。
そう思い暮らしていると、貧乏神がいられなくなり離れていきます。

そこにやってくるのは福の神なのです。
福の神がすみ着くと、笑顔が絶えなくなります。
それは感謝の思いが暮らしの中にいつも流れているからです。

豊かな生活を肯定し、感謝の思いで暮らすことが、
日々の豊かさを作りだしてくれます。