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みにミニ法話

(267)「苦難を生きる」

誰しも苦難なときはあります。
平凡な生活をして、何事もなく一生を終える人は数少ないと思われます。
苦難を耐え忍び、乗り越えていくことが、木々の年輪や、竹の節にたとえられ、
人間が強くなってくうということを聞きます。

なぜ人は、苦難を乗り越えると、強い人間になっていけるのでしょう。

人には心があります。
この心は体験を通して、しっかりしたものに成長していきます。
この肉体は、ある程度成長すると止まってしまいますが、
心はどうも成長に限りがないようです。その心を鍛えるのが、苦難であるわけです。
そして苦難を経た人の言葉には力がでてきます。

三重苦を乗り越え立派にいきたヘレンケラーの言葉に、

自分でこんな人間だと思ってしまえば、
それだけの人間しかなれないのです。

という言葉があります。

ヘレンケラーが、もし目が見えない、耳が聞こえない、だから話せない。
こんな苦しみがあるならば、私は神様から見捨てられた存在だ。
そう思って生きていれば、そのような人間になってしまいます。

「人間には乗り越えられない苦難を神仏は与えない」と言われています。
苦難も何かそこに大きな学びあるからこそ、あると思えます。
もしかしたら、与えられているのかもしれません。
ヘレンケラーはこの三重苦を乗り越え、神様のことを、こう語っています。

人生は私たちが愛のなかで育つようにと
神さまが与えてくださったものだと思います。

香り高い、色の美しい花のなかに太陽があるように、
私のなかに神さまがいらっしゃいます。
それは私の暗闇のなかの光であり、私の沈黙のなかの声なのです。

こんな尊い言葉を残しています。

神さまは暗闇の中の光であり、沈黙のなかの声と言っています。
目が見えない私に、神さまの光が見え、
耳の聞こえない私に、神さまの声が聞こえる。
ヘレンケラーのように、苦難の中に、こんな心境をえれば、
私たちも、どんな苦難にも生きていけそうです。