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みにミニ法話

(260)「思いが自分」

これが自分だと考えられるのは、鏡で顔を見た時かもしれません。
そこに映っているのは、確かに自分です。

でも、考えてみてください。
10才の私の顔と50才の私の顔は同じでしょうか。
似ているといえば、似ていないこともないでしょうが、
おそらくだいぶ違う顔が映っているはずです。

10才の自分と50才の自分。どちらが本当の自分でしょう。
80才なればどうでしょう。この肉体は日々変化していきます。

さらには2年ほどで、肉体のすべてが入れ換わるとも言われています。
2年前の私は今いなくて、新たに細胞分裂した私が、
2年後、ここにいることになります。
そう考えると、この顔や肉体が本当の自分であるとは、考えにくいかもしれません。

名刺などに書きこまれた肩書はどうでしょう。それが自分でしょうか。
自分を紹介するには便利ではありますが、定年してしまえば、
その肩書もなくなってしまいます。

名前はどうでしょう。
一生変わらない人もいますが、お嫁に行ったり、
男性でも養子に入れば、名前も変わります。

思いはどうでしょう。
この思いは、誰にも束縛されず、自由に考え思うことができます。
肉体は束縛されても、心まで束縛することはできません。

70才になっても、思いの中で若くはつらつとして生きている人もいます。
そんな思いが本当の自分を現わしているのです。

70才で、年を取って生きていけないと思っていれば、
それが自分になります。70才でも優しさを常に大切に思っていれば、
それが本当の自分で、努力を惜しまない思いを持ち続けていれば、
それが本当の自分といえるのです。

「思いが自分」、これを禅的にいえば、一つの悟りといえます。

どのような思いで暮らし生きているのか。
その思いが自分であるならば、この思う自分を正しく調えて、
できるのであれば、多くの人に役立つ人生を築いていくことです。
そう思い、日々を暮らしていけば、自分が拡大していき、
さらに幸せを感じられるようになります。

この肉体が本来の自分ではなく、
その肉体の中に潜む思い(こころ)が自分なのです。
どうぞ、この自分をよく感じ取ってください。