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みにミニ法話

(225)「あの世を信じる」

あの世があるかないかは「ある」か「ない」かのどちらかになります。
お坊さんでも、あの世があるかどうか分からないという人がいますが、
一般の方ならともかく、「分からない」というのは、宗教者でなく、
お坊さんをおやめになったほうがよいと思います。

あの世は確実にあり、信じる世界のことではありません。
テーマでは「あの世を信じる」と柔らかく表現していますが、
あの世は必ずあって、私たちが死んで後にいくところが確かにあるのです。

その世界の法則は、
まず、この世でどう生きたかによって、生き場所が決まるということです。

逝ってみないと分からないという人がいますが、
、どのような思いで暮らし、生きているかで、
死んで後、どんな世界へ行くかが分かるのです。

お釈迦様は
「善を積んで生きた人は善の世界へ行き、
悪を犯して反省もしない人は、死んで後、悪なる世界へいく」
と説いています。

その悪なる世界は地獄とも表現されています。

この善と悪ですが、
「この世の法律では悪を犯したことがなく、
警察にもやっかいになったことはないから大丈夫、
だから善の世界へいける」
と思いがちですが、そうではありません。
あの世に行くには、この世の法律ではなく、仏さまの法律があるのです。
「心の法則」と言ってもいいでしょう。

仏さまの法律では、
心の中で貪欲、怒り、不平不満、などに心乱されていると、
この世の法律では悪いことをしていなくても、
善なる世界へ昇っていくのは難しいということです。

お経の中にも
「欲しや惜しやで日を暮らし、憎くや可愛いで夜を明かす、
これが未来で罪となる」
と歌っています。

「欲しい欲しい。まだ足りない。やっと得た財産や幸せは、
惜しく惜しくて、人には分けてあげられない」
そんな思いを少なからずは誰しもが持っています。

もし、それが全面に出て一生を送れば、亡くなって後、その人は
「欲しい欲しいまだ足りない」という餓鬼の世界へいくのです。

こんな世界へ行ってはじめてあの世の世界を認めるようでは、
「後悔、先に立たず」です。あの世の視点を失わず、
今このときをどう生きるかが賢明な人の生き方なのです。