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みにミニ法話

(214)「爽やかなる善」

仏教ではこの善をとても大切にします。
善とは善いことをするという意味の善です。

なぜこの善が大切かというと、自分のこととして、
まず心が清まるということです。

毎日の生活の中で、不平不満が出たり、怒ったり、
欲が出て人を傷つけてしまったり、人の悪口がつい出てしまったりすると
心がしだいによごれてきます。

よごれてくると、人は悪いことを思っても、
それがいけないことであると、思えなくなるのです。
平気で車の中からゴミを投げすてるのは、相当心が汚れている証拠です。

そんな心のよごれを取る方法が善を行うことなのです。

次に善を行うためには、相手のことを考えてしなくてはなりません。
相手のことを考え、相手の幸せのために行動するのが善の在り方です。
これは人として人格を高める行為にも通じていきます。

ゴミの話が出ましたが、そのゴミを拾うにも、
みんながきれいに町や野原を使えるようにという思いがあるからです。

遠くで見ている富士山はとてもきれいですが、
富士山の中に入ると、結構ゴミが捨ててあり散らかっているといいます。

捨てる人は悪で、それを集めて善業を積んでいる人もいます。
富士山を遠くで見ても、近くで見ても美しくありたいという願いからの行動です。

それは心を美しくするとともに、利他の精神を培う大切な方法でもあります。
そしてこの善を行うのに、できることならば、
これが私の仕事だと思ってすることです。

また、仕事であるけれども、
そこに対価を求めないということも大切になってきます。

そんな気持ちで善を行うと、
その善が爽やかな風のように相手を心地よくさせていきます。

しかし、心の内にある悪なる思いも、消しても払っても現れでてきます。
なくなることはありません。

そんな悪なる思いと闘いながら常に悪を止め、善の風を吹かせていく。
そんな自助努力の精神が必要になってきます。

力まず、善を行うことを感謝の現れと思い、爽やかに吹き抜けていきます。
爽やかに善を行っていく、そこに現れでるものは、
自らの幸せと、相手の喜び満ちる笑顔です。