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みにミニ法話

(112)「悲しい出来事」

世の中には悲しい出来事がたくさんあります。その一つに愛する人との別れがあります。

昔ある葬儀に出た時のことです。亡くなられた方は、まだ36才の女性。ガンでしたから、若いこともあって、あっという間の他界です。

女性には小学生になった男の子が2人いました。その子供さんにとって、母との別れは、とても悲しいものであったでしょう。

葬儀中に、弟の小学校3年の子が、声を上げて泣くのを我慢して、目から大粒の涙をボロボロと流しています。両手は腿(もも)の上にのせ、こぶしを作って、悲しみをこらえています。

私は、これほど悲しみをこらえ耐えている姿を、今まで見たことはありませんでした。愛する人との別れの悲しさ。言葉に尽くせないものがありました。

これは愛する人と別れなければならない悲しみですが、人として真理をしらないことの悲しみもあります。

人としての悲しみ…。それは自分がいかなる存在であるかを全く知らずに生き、そして死んでいくことです。

これほどの悲しみはありません。自分とは本来何者であるかを知らずに死んでいくほど、悲しいことはありません。

自分とは、いかなる存在でしょう。

答えは、自分とは、神仏の子であり、神仏と同じ性質を内に秘めた存在であるということです。

このことを知らずに生きている人の、なんと多いことでしょう。それを信じないで生きている人の、なんと悲しいことでしょう。

この世でそれを知らずとも、幸せに生きていけるかもしれません。しかし死んで後、神仏の前で心をさらけ出し、「あなたはどんな生涯を送ったのか」と問われた時に、本来、自分が神仏の子であったと知らずに生きたことが分かれば、どれほどの後悔をしても、足りないのです。

いくら大粒の涙を出しても、自分自身が自分を許せないかもしれません。

それほど、自分の正体を生前に気がつき生きていくことが大事であるかを感じてください。