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みにミニ法話

(103)「心を洗う」

反省は、光り輝いた自分を取りもどすためになされるものです。

お客様を家にお招きするときに、大概の人は家の中をきれいにお掃除します。
そうしなければ、お客さまに不愉快な思いをさせてしまいますし、自分自身も恥ずかしい思いをするでしょう。

あるいは、部屋を掃除するにも、床を拭く雑巾が最初から汚れたものであれば、床もきれいにはなりません。
家の中をきれいにするのも、雑巾をよくすすいできれいにするのも、反省によく似ています。反省は汚れた心をきれいにすることだからです。

心のことは、まわりの人に見えないので、ないがしろにされることが多いのです。
人が訪ねてきても、心の中は見られないので、心が汚れていても、そのときだけ隠していれば、訪ねてきた人も、そのことを知らずにやがて帰っていきます。

しかし、神仏やまた自分自身には見えています。心のけがれがあれば、それは恥ずかしいことであると、日頃から思っていなくてはなりません。

反省することで、自分の心の中の汚れを取りのぞくのですが、その行為によって、
本当の自分がそこに現れてきます。その自分は、自らの人格を高めようとするものであり、人のために喜んで働こうとする自分です。

そのような自分を仏教的には「菩薩」と呼びます。

そして、心の中をきれいにする反省のための基準になるものが、法、教えになります。この教えにそって自分の心を点検し、いけないところは直し、心の汚れを取っていくのです。

雑巾をすすぐきれいな水の役割が、法の力といえるかもしれません。
この意味でも、自分のいたらないところを反省し、きれいな心をもつ自分になろう、人の幸せのために働こうという気持ちのない人には、自分を造り上げていく教えは無縁であるかもしれません。

そんな自分にならないためにも、教えを学ぶことを人生の一つの指針として、その教えの力で、自らの心を洗い流し、清らかに保ち続けていことが、幸せの近道であると知っていましょう。