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仏事の心構え(114)

直葬 6

今回は「直葬」の6回目になります。

今まで直葬についてさまざまな事をお話ししてきました。
それも客観的な立場でのお話でした。

許されるのであるならば、法愛の著者としての見解を述べておこうと思います。
それは僧侶の立場と一般の方々の葬儀に対する立場です。

今回この二つを紙面には書けませんので、僧侶の立場としての見解を述べてみたいと思います。
これは私が思っていることで、私自身の戒めと考え述べさせていただくので、その辺はご理解いただきお読みください。

先月このコーナーで、仏教雑誌『大法輪』1月号から引用を致しました。
今回も5月号から少し学ばさせていただきます。

この雑誌の中に「仏教の眼」というコーナーがあって、
今月は法華宗の129代管長である大塚日正(にっしょう)師の文が載っていました。

師は、仏教が人々の心から遊離してしまった一つの理由は、

僧侶が徳を具えず教えを伝える仕事をしないで、
心のこもらない形式的な儀式に終始した回向、葬儀をしていることにある

と指摘しています。

そして小僧時代に師匠から言われた言葉を載せて、
今でも忘れず自分を戒めていると言っています。

私もその師匠が言われたことがとても心に染みて、
「ほんとうにそうだ」と思いました。

私も未熟ですが、この言葉を謙虚に受けとめ、そうありたいと戒めます。

こんな言葉です。

僧侶たるもの、まず尊敬されなければならない!

尊敬されずして、どうして人を救うことができる。
人と相対した時、大概は手を合わせて、頭の一つも下げて頂けるであろう。

大事なのは後ろ姿。
去りゆく後ろ姿に向かって手を合わせ、頭を下げて頂いてこそ、本物の僧侶。

人々の為にどうあるべきか。
悩み、苦しむ人に如何に救いの手を差しのべられるか、
励まし、喜びを与えることが出来るか。
常にそのことを心得よ。

私僧侶が、日ごろから徳を高め、生きている人はもちろん、
亡き方で迷っている人々をも救っていこうとする真摯な思いでいれば、
宗教的儀式の大切さも理解されていくと思われます。