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仏事の心構え(112)

直葬 4

今月も「直葬」についてお話を致します。今回で4回目になります。

今回は送る側の立場で、どうこの直葬をとらえているのかを考えてみます。

今まで自分が亡くなったときの遺言として
「迷惑をかけるから、葬儀はしなくてもよい」という立場でのお話でしたが、
送る側としてはどう思うのでしょうか。

お釈迦さまも弟子たちに、

お前たちは修行完成者の遺骨の供養にかかずらうな

『ブッダ最後の旅』中村元訳

と言いました。

かかずらうなというのは執着してはいけないということです。

でも、です。
大切な師を亡くした弟子たちが
「はいそうですか、それではさようなら」などとは簡単にはいえるのもではありません。

悲しみ、泣きわめき、師の死を悼んで、
師への供養の思いは消すことができなかったと思います。
それをお釈迦様は知っていて、あえてこの言葉を残した、私は解釈しています。

直葬で送る側の立場としては、
お金や手間がかからないのは楽ですが、次のような感想を述べています。

「『子どもの世話になりたくないから直葬をする』といっても、
親孝行をしたいと思う子供もいる」(女性)

「心のこもった別れになると、直葬のように、
そんな簡単なのもであっていいのでしょうか」(匿名)

「葬儀は残された子供、親族、友人が故人をしのんだり、
故人に感謝をささげるためにやるものではないか」(女性)

産経新聞 平成21年10月8日

こんな意見もあります。

直葬では、そのあっけなさに『死』に対する精神的な区切りが付けられなかった
という事例もあります。

『お葬式の雑学』 市川愛 扶桑社親書

葬儀をして海にお骨をまいてあと何も残らず、
その後の供養もできないで、心の穴がぽっかりあいてしまった、
という方もいらっしゃいます。

亡き方をあまりにも簡単に送ってしまうことの精神的な区切りについては、
やはり思いやりを精いっぱい何かの形に表して、自分が後で悔いの残らない送り方をしたほうが善いように思えます。

大切な人であったなら、できる範囲で宗教的儀式をし、
その儀式の力で、亡き人も自分自身も救われていくことが必要ではないでしょうか。