仏事の心構え(101)
仏壇 1
今月は「仏壇」についてお話を致します。まず1回目です。
仏壇で感じたことがあります。
岐阜の白川村にある白川郷に合掌造りの民家があって、そこを訪ね見させていただいたことがありました。
思ったことは、どの家にも仏壇があって、それも大きな仏壇で、間口が一間(いっけん・六尺)ほどあったかもしれません。しかも仏壇のある部屋だけが畳であったのです。あとはみな床です。
現在の建物は床が多くなってきましたが、昔はみな床で、庶民はめったに畳の部屋には住めなかったかもしれません。
そんな状況のなかで、仏壇の部屋が畳であるのは、仏様や先祖様を大切にしているということでしょう。ですから素直に、「すごいなあ」と思って帰ってきたのです。
どの家にも仏壇があったと書きましたが、今では核家族が増えて、仏壇のない家がたくさんあります。
私はお寺に育った縁で、今までずっとお参りをしてきましたので、朝、正座してお参りしないと、何か大切なものが失われていくような気がして、お参りしないと落ち着きません。お参りしないで、仕事に出かけていくのは、考えられないほどです。
大概の人は仏壇があって、手を合わせることを学びます。仏壇がなければ手を合わす機会はなく(食事の時、手を合わせる家庭はあるでしょう)、そんな人でも、仏壇のある実家などで手を合わせるかもしれません。その実家にも、もしかすると仏壇がないかもしれません。
非行に走る子供たちは手を合わせる経験が全くなかったと、どこかの少年院の院長先生に聞いたことがあります。
手を合わせることで、見えない仏様が見ているから悪いことはできない、と教えることができるわけで、手を合わせたことのない子供が大人になっていく社会は、何かさつばつとしたものを感じます。
その意味で、先祖様をお送りしたことのない家でも、仏壇を設け、礼拝する毎日を送るのが大切ではないかと、私は切に思っています。