慈しみの風を吹かすというのは、
出会う人ごとに慈しみの思いも持って接するということです。
そのためには、自分自身が、慈しみの風に吹かれ、
生かされていることを実体験することです。
自分自身が、支えられてある、
慈しみの中で生かされているということを知っていないと、
相手に慈しみの風を吹かすことはできないと思われます。
慈しみは、花からも動物からも、雲や木々、月や太陽、
そして家族や、嫌いな人からもいただいて、今の私があります。
そのことをしっかり体得していることが、一つの悟りです。
その前提があって、初めて、慈しみの風を吹かせていくことができるのです。
ここまでは体得できなくても、
「いつも支えられているから、何か自分のできることでお返ししていこう」
と思っていると、素直に慈しみの風を吹かせることができます。
「思い考えること、その事がその人自身である」
という考え方がありますが、思いや考えが仕事をするのです。
「いつも支えられているから、誰でもいいからお返しがしたい」
といつも念じていると、どこでも、どんな時でも、
身体が自然にうごいて、人を助けることができます。
この世は神仏の慈悲の思いで作られていると言われています。
ですから、この世界から神仏の姿を発見しようと思えば、
慈悲の思いを感じとっていけばいいわけです。
桜の花はすでに散ってしまいましたが、
その花の美しさの中に慈しみの思いを感じ見ていけば、
そこに神仏の姿を見たことになります。
桜の花びら一枚いちまいが風に吹かれて散っていく様子は、
非常に無常を覚えますが、その散り方にも美しさがあります。
その花びらが天に舞っていくようすや、川の水面に落ちて、
川が桜の花びらでピンク色に変わっているところを見ると、
また、なんともいえない美しさを思います。
そこに神仏の慈悲の姿を重ねていくと、神仏の姿を見ると共に、
慈悲の美しさと清らかさを見ることができます。
このように、すべてに慈悲を見て感じていくことが、
自分でも慈悲の風を吹かせる力になり、
またその瞬間に神仏と重なっている自分に気がつくのです。
それは深い感動を覚えるときでもあります。