無我というのは「我が無い」と書きますから、極端にいくと、
死んだら何も無くなってしまう、という考えになってしまうことがあります。
お釈迦様が語られた無我は、そうではなくて、
煩悩を滅して清らかな仏の心と同じになった心境をいうのです。
現代的に分かりやすく言えば、私が無いということで
「私心がない」といってもいいでしょう。
ボラティア活動をしていて、誉めてもらいたいためにするとか、
役がたまたま来たからするとか、仕方ないからするとか、そのような思いを持たず、
真心をこめて一心にすることが、私心がない状態といえますし、
無我の思いで活動をしていることにもなるでしょう。
無我の状態で活動する場合、そこにほほえみがあり、安らかさがあります。
自分を空しくしているので、素直な思いで事にあたることができます。
その状態が仏教的には、仏の心を働かせていることになります。
逆に、心が煩悩で曇(くも)っていると、無我でない状態です。
素直さが押しつぶされ、欲や怒り不平の思いがわき出てきて、
心安らかではいられなくなります。
その思いが自分勝手な思いに通じていき、
また、相手を理解する力を失わせるのです。
晴れた日に、どこからともなく風に乗って雪が舞い散ってくるときがあります。
それを風花と書いて「かざはな」といいます。
そんな雪が花のように舞ってくる様子をみると、
その美しさと不思議さに我を忘れます。
これは一つの例ですが、
自然の美しさは、心を癒し、我を忘れて自然と私を一つにしてくれます。
この状態を無我と言い表すこともできましょう。
無我であれば、自分自身への計算がないので、
自然の美しさを自ずと受け入れられるように、
相手を素直に受け入れ、理解することができます。
相手と口論したり喧嘩をしたり、また意見が合わなかったとき、
私は無我を生きていないと気づくことです。
そして自然の美しさを素直に受け入れている自分を思い出し、
無我の大切さを思うことです。
無我になって、今年一年を静かに振り返ってみてください。