「不動心」とは心が動かないということですが、
心ほどころころと動くものはありません。
お釈迦様は心を「暴れ馬」にたとえられましたが、
それほど心は思うようにならず、ころころと動くものです。
道に十円が落ちていれば、「たった、十円か」と思う。
百万円の束が落ちていれば欲がむらむらと湧き出て、「これはラッキー」と思う。
「一人じめしようか」あるいは「警察に届けようか」と迷う。
人は多額のお金で、ころっと心が変わってしまうのです。
あるいは、人が馬鹿にするような事を言えば腹が立ち、
優しくしてくれれば嬉しく思う。
「ありがとう」といってくれなければおもしろくないし、
謝ってくれなければ、いつまでも心が落ちつかない。
「頑張って」といわれて元気がでたり、
逆に「これ以上、頑張れって言うの」と反感を思うときもあります。
美味しいと思って入ったレストランで、値段の割には美味しくなかった。
お店を出たとたんに、文句の一つや二つが口元からこぼれ落ちますね。
このようにまわりの状況や受けた言葉、されたことなどによって、
いつも心がころころ変わっていては、なかなか幸せにはなれません。
まわりの状況や受けた言葉、された事ごとに、心がころころと動くことなく、
それを正しく受け止められるために、不動の心が必要なわけです。
その不動の心の一つに「穏やかな心」があげられます。
穏やかさとは心が落ち着いていて静かな状態をいいます。
心が落ちついているので、心の波立ちがなく、
あたかも湖面が山や空の景色を映すように、よくまわりのことが見えて、
正しい判断ができるようになるのです。
一見、不動心という言葉の力強さに比べると、
穏やかさは少し力強さに欠けるような気も致しますが、
穏やでイライラしない心の状態のときに、私達の内に秘められている、
神仏(かみほとけ)の性質としての、力強い生き方が現れでてくるのだといえます。
この穏やかな心を得るためには、
常に「心、穏やかであれ」と自らが自らの心に語りかけることです。
心という暴れ馬をいさめるように、
「心、穏やかであれ」「心、穏やかであれ」と語りかけることです。
この言葉が、心という暴れ馬を操る手綱ともいえましょう。