雑念とは坐禅などしていると、
さまざまな事が頭の中を去来し、「無」になりきれないときよく使いますが、
今回は別の観点から考えてみたいと思います。
一般的には雑念とは修行の妨げになる余計な思い、考えをいいます。
ですから人生修行を考えた事もない人には、
この雑念という考え方はないともいえるかもしれません。
ここでの人生修行というのは、
この世に生まれてきたのは「多くを学ぶためにある」
という基本的は考え方からいえば、誰しもが持つべきものであると思われます。
人生修行にとって大切なのは、自己を律することと、他を利すること、
すなわち相手の幸せのために働くという、この二点に集約されます。
ですから、
この二つの考え方、生き方を妨げるもの、邪魔をするものが雑念なのです。
自分を律するためには努力がいります。
この努力を妨げる思い、それがひとつの雑念です。
たとえば「働きたくない」と思う。
「楽(らく)をしてお金儲けをしたい」と思う。
「寝て暮らせれば」という思い。
お酒を飲んで運転をしてはいけないのに「ちょっとくらいなら」という甘い考え。
みな雑念といえます。
あるいは自分をだめな人間だと思ったり、
嘘をついてその場をやり過ごそうとする思いも、そうでしょう。
そのような雑念に負けてしまうと、
道にそれた生き方になり、自分も相手をも不幸にしていきます。
自分を律して、そのような雑念を振り払う生き方が大切です。
二つ目の相手の幸せのために働くという人生修行ですが、
人は自己中心的な考えに陥りやすいので、
結構この生き方に対する雑念も多いと思われます。
昨今給食費を払わない親が増えているといいますが、
まわりの迷惑を考えず「払わなければ、それに越したことはない」と思う。
「これくらいなら」と思ってゴミを路上に捨てる。
老人はお金を持っているから、「騙しとってやれ」と思う。
みな雑念です。
「自己を律したり、他のために働く」
という生き方は難しいことであるかもしれませんが、
それを妨げる思いが雑念であると見極め、
その思いを何度も何度も振り払い生きていく。
そこに人生の妙味があるのだと思います。