人はとらわれの心によって苦しみを背負い、
不幸になっていくことが多いといえます。
また苦しみの原因がとらわれの心からきていることを知らず、
さらに他の人にまで、自分の苦しみを広げていく人もいます。
たとえば、自分の年令にとらわれている人。
「私は絶対おばあさんと言わせない」といって、そんな年令になり、
おばあさんと言われ憤慨し、回りの人に文句をいう人。
学歴にとらわれ、自分や相手をさげすむ人。
自分の鼻の低さにとらわれ、笑顔のきれいなことを知らずにいる人。
一回の失敗にとらわれ、再出発できず努力しない人。
家庭の不和にとらわれ、
自分ほど不幸な人はいないといい、その不幸を愛する人。
子どもがいないことにとらわれ、
夫婦二人で生きていくことの楽しみを半減させてしまう人。
逆に子どもがいるために、自分の楽しい生活が子どもに奪われたと思い
不平を言う人。
まだまだでてくると思います。
この「ひとつのことに、とらわれてしまい苦しみをなめる」という原因の一つに、
貪欲の思いがあげられると思います。
「もっと欲しい、もっと楽になりたい、
もっと幸せでいたい、これ以上傷つきたくない」
そんな思いにとらわれていると、
いつまでも幸せの果実を手にすることは難しいでしょう。
とらわれないという状態を禅では、行雲流水で表しています。
行雲流水とは字のごとく、
「雲の空を行くごとく、水が川を流れるがごとく、生きていけ」
という意味です。
雲が空を移動していく様子を見ていると、心がすがすがしくなってきます。
それは何物にもひっかからないという姿が美しく見えるのです。
水が川を流れていく様は、すがすがしいものです。
特にその水が澄んでいればなおさらで、そんな状態をとらわれのない状態であると
賢者は悟り、「とらわれない心」を行雲流水という言葉で表現したのです。
苦しみや不平不満が出てきたら、きっと自分の欲深い思いからきている、
その欲の思いにいつまでもとらわれていないで、
雲が空を行くように、水が川を流れていくように、
その岩のような欲を「さらさら」とくぐりぬけ、
また「さらさら」と、とらわれなく、新たな時、新たな日々を生きていく。
そんな生き方が、やがて幸せへと導いてくれるのです。