そもそもこの「心を洗う」という言葉が出てきたのは、
心が何らかの原因で汚れるからという理由からです。
服や身体もほこりがついて汚れていきますし、
家や車も掃除をしなければしだいに汚れていきます。
これは目に見えることですから、よく分かることです。
でも、心が汚れるという表現は、普段耳にしない言葉ですし、
油断をしていると、一度も心を洗うなどと思わないで、日を過ごしてしまいます。
服や身体は、まわりから出たほこりや泥によって汚れたり、
あるいは自分から出た汗などで汚れます。
では心は何の原因で汚れていくのでしょう。
それは貪欲のほこりであったり、怒りの泥であったり、
愚かさの汗であったりするのです。
ですから心を洗うことなく、そのままの状態にしておけば、
自分の顔に泥がついていても洗わないように、
心もそんな姿になっているということです。
泥が顔についていた状態で、出かけられるでしょうか。
おそらく多くの人は恥ずかしくて、外には出らないでしょう。
女性の方はきれいにお化粧をしてでかけるほどですから、なおさらのことです。
心を洗う洗剤になるものに、反省という洗剤があります。
貪欲や怒りの思いがでてきてしまったら、
「いけない思いを出してしまった。いけない行動をしてしまった。
申し訳ない。これからは注意しよう」
と思うことです。
これが心を洗っている姿といえます。
心を洗う別の方法として、人としてのあたたかな体験を聞くことです。
小学校1年の勝也君が「オムツの中」という詩を作りました。
みて、すごいきれい。ひかってる。あっくんがんばったね
(「にんげんぴかぴか」ページ21)
うんちを勝也君は「すごくきれい」といっています。
心洗われる思いがします。
さらに心を洗う方法は、尊い教えを聞いたり、読むことです。
苦しみのために、心に乱れを感じたとき、
「わざわいは、神の行為が顕れんための機会である」という教えに会えば、
心が洗われ、安心を得ることがあります。
このような方法で心を常に洗い、
きれいな心で、人と接していくことが大切です。
恥ずかしくない心を持って、日々を大切に過ごしていきましょう。