法話

人間として生まれてきて 3 肉体を離れて

迷ってはいけない

この世で多くを学び取って、
やがて長い間、支えられてきた肉体とお別れし、
魂としての姿になって、次元の違う世界にみな行くわけです。

この世とあの世の境は中有と言いますが、
死を認めない人はそこに長くとどまって迷い、俗にいう幽霊になってしまうのです。

迷いのパターンに二つあって、
ひとつは人への恨みや、この世に思い残すことが強かったりする場合です。
もうひとつは、自分が死んだことに気づかなかったり、
死んだら無になると固く思っている人です。

「震災後の不思議な話」(宇田川敬介 飛鳥出版)という本があります。
東日本大震災で亡くなった人が、幽霊になって現れたのを見た人が、
何人もいると書いています。

そんな実例がたくさん書かれているのですが、
「死んだことに気づかない」という怪異譚の代表的な例が載っていたので、
そのお話を少し長いのですが引用してみます。

ある看護師さんが、シフトで夜勤をしていました。
すると、ナースコールが鳴ります。

その部屋は、誰もいないはずの部屋でした。
本来、その部屋でナースコールが押されるはずはありません。

しかし、夜ですから、トイレかどこかに行って部屋を間違えて、
ナースコールを押した可能性もあります。

同僚が席を外していたため、
その看護師は一人でナースコールがあった部屋に行きます。

するといないはずのベットの上に、
お婆さんが横になって苦しんでいました。
職業柄、そのお婆さんに近づいて声をかけます。

ところが体温計を確認しようとベットサイドを見回し、
一瞬目を離した間に、なんとそのお婆さんは消えてしまったのです。

「ふざけないで出てきてください」などと、部屋の中を探しても、
そもそもベットの上に人がいた形跡がありません。

看護師は怖くなってナースステーションに戻り、もう一人の看護師に聞くと
「その部屋のお婆さん、昨日亡くなりましたよ。
ちょうど夜で大変だったみたいです」などという。

「でも、今さっきベルが鳴って部屋まで行ったんですけど」というと
「鳴るはずがないですよ。誰もいないんだから」と、
何事もなかったように仕事の続きを始めました。

私が見たお婆さんは、いったい誰だったのでしょう。

(「震災後の不思議な話」 宇田川敬介 飛鳥出版)

だいたいこんな話です、と書いています。

このお婆さん、死んだことが分からないか、
死にたくないと思っていたのかもしれません。

死にぎわに何を見る

この肉体から魂がぬけ出る時、さまざまな不思議なことがおこります。

そんなことを書いた本はたくさんありますが、
『人は死にぎわに何を見るか』(リサ・スマート 徳間書店)で、少しお話しします。

死が迫ってきて、肉体と魂が離れやすくなると、いろんなものが見えてきます。
この本には、こんなことが書かれています。

「お母さん、お母さんが今私のそばにいる」
(話者の母親は何年も前に亡くなっていました。)

「何てきれいなの。ここはとてもきれいね!」
(この言葉を発したとき、話者は殺風景な病院のベットに寝ていました)

(『人は死にぎわに何を見るか』 リサ・スマート 徳間書店)

臨死体験で見た死後の世界

この本には「臨死体験の話は、人生は旅であり、
その主な使命は愛を学ぶことだと教えてくれるのです」とあります。

臨死体験は脳が反応していることと言い切っている人もいますが、
魂としての姿になって、普段とは違った世界が見えるのです。

これは何らかの神仏の計らいであると感じています。
臨死体験のようすを、こう書いています。

「神聖なる存在が、現実の世界は、
現実には現実ではないことを教えてくれました」

「生きているときよりも死んでいたときのほうが、
生きているという実感がありました」

最初の方の臨死体験は、
この世は仮の世であるという仏教の教えに当てはまります。

私たちは人間として生まれてきて、
魂と肉体が一緒になってこの世でさまざまな学びをして暮し、
死を受け取ったら魂の姿になって、光の世界に帰るのです。

できることならば、素晴らしい人生であったと思える生き方をし、
今日の日を、人間として悔いを残さないよう生きていくことが、大切であると思います。

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