今月から「人間として生まれてきて」という演題でお話をします。
このお話は平成30年6月23日、
お寺の女性部の「水無月の法話会」でお話ししたものです。
1時間ほどのお話でしたが、2回にまとめて、お話ししていきます。
人間に生まれてきた
私たちは人間として生まれてきました。
でも、人間であるという深い実感があるでしょうか。
私は人間として生まれてきて、ほんとうに有り難い。
そう思って暮らしているでしょうか。
そうではなくて、人間であることが
あたりまえのように思ってはいないでしょうか。
「私は人間に生まれた。これは本当に尊いこと」
時には、そう思って、今日の日を生きていくことも大事ではないかと思います。
小学校の頃、夏休みが終わって、学校に行かなくてはならない。
宿題も中途半端で、行きたくない。
そう思って飼っている猫を見ると、涼しい日影で、すやすや寝ている。
猫は学校に行かなくていいし、自由。
人間より猫のほうがいいなあ。
そんなことを思ったことがありました。
犬はどうでしょう。
今の犬は家の中で飼っている人が多く、
服を着て散歩している犬もいます。
でも、鎖につながれて自由がない。
鳥はどうだろう。
空を飛べて気持ちよさそうだけれど、
エサを探すのに苦労したり、
メジロをけちらすヒヨドリでも、
タカに襲われ食べられてしまう。
猫がいいと言っても、猫は本も読めないし、
アイスクリームも自由に食べられない。
温泉にもいけないし、お経も読めない。
その点、人間はパスカルが「人間は考える葦」と言ったように、
考えて、考えて学び、詩も小説も書ける。
短歌も俳句も川柳も創作して、
そして読むことができる。
音楽も楽しめるし、自動車を作り、
新幹線を作り、飛行機も作って、
遠くに出かけることもできる。
そう思うと、考える力を持つ人間って、すごいと思う。
何からも学び考えられる
この「法愛」には、よく詩を載せます。
私も大学時代から詩をよく書いていたのです。
ですから、詩には興味があって、いい詩をいつも見つけようとしています。
こんな詩を見つけました。
「つばめさん」という題で、71才になる女性の作品です。
「つばめさん」
少子化に
本気で悩むなら
理屈をこねまわさずに
今一度立ち止まり
つばめさんを
見習うといいわ
南方から
お金も持たずに
裸一貫で
飛んで来て
立派に子育てする
つばめさんを(産経新聞 平成30年6月19日付)
この詩から、
つばめさんの子育てする尊い心構えを学ぶことができます。
考えて、学べるのです。
南方とは、フィリピンが多いようで、
タイやインドネシアなど、東南アジアから日本にやってきて子育てをするのです。
どのくらいの距離を移動するのか調べてみると、
最長6500kmほど飛んでくるといいます。
ツバメには先天的能力があるようで、
「半球睡眠」といって、脳が半分眠りながら飛び続けることができるといいます。
そんな遠くからやってきて、裸一貫で立派に子育てをするのです。
この詩のように、つばめさんを見習っていいかもしれません。
人間の身を受けて
仏典に次のような話が載っています。
阿難というお釈迦様のお弟子が、
人間に生まれてきたことに疑問を持っていたとき、
お釈迦さまは阿難に、こんな話をしました。お釈迦様は、大地の土を爪の上に載せて、
「大地の土と、この爪の上の土とどちらが多いか」と尋ねられました。阿難は「それは大地の土の方が多いです」と答えました。
お釈迦様は、「そうだね。この世で生きている生き物は、
この大地の土のように多いけれど、人間として生まれてくるのは、
爪の上にのせた土ほどで少なくまれなのです。
ですから人間に生まれてくるのは、とても有難いことなのです」と。
人間に生まれてくるのは、奇跡に近く、
とても有難いことであると、このお話から理解できます。
生き物の中で、たとえば昆虫はどれくらいいるのでしょう。
約100万種類いるそうで、専門家の推定では、
200万から1億種くらいいるのではないかとも言っています。
昆虫の種類ですから、それぞれのひと種類の昆虫でも、
どれだけの数になるでしょう。
チョウでも17万種類あるといいますから、
この世に生息する生き物は、膨大な数になるでしょう。
そんなたくさんの生き物の中で、
人間として生まれてくるのは、とても尊いことなのです。
民俗学からみた肉体と魂(霊)
民族学から、肉体と魂の関係を考えてみます。
民俗学とは伝統的な生活文化、伝承文化の中から、
人びとの考えを探っていく学問です。
たとえば亡くなった人に、刃物を載せます。
なぜでしょう。
こんな形に表された中から、人びとの考えを探っていくわけです。
このことに私自身とても興味があって、長年調べてきました。
それが「法愛」で「ことわざ雑考」の前に
「しきたり雑考」の章として、100回ほど書きました。
ご承知のように、刃物をのせるのは、魔除けのためです。
詳しい説明はしませんが、人が亡くなると、
どうもよくない霊がよって来やすいので、
それを避けるために、刃物をのせるのだと言われています。
肉体と魂の関係ですが、民俗学者の古家信平氏が、
このようなことを語っています。
生まれてくる時に、肉体に魂がしっかり固定されていないので、
肉体と魂がしっかり固定されるように儀式をします。
亡くなるときには逆に、肉体と魂が離れやすいようにと、
そんな儀式をします。まず、生まれて来ると産祝をして会食をします。
亡くなるときには、通夜に食い別れとして近しい人と会食をします。生まれて7日経つと、お七夜といって
無事成長をしてもらうために、命名し、お祝いの食事をします。
まだ肉体と魂が固定されていない状態です。
亡くなると、初七日といって、あの世に無事帰れるようにご供養します。生まれて30日が過ぎた頃、お宮参りをし、
神様に無事育っていくようにとお願いします。
少しずつ肉体と魂が固定されていきます。
亡くなった人は49日の法要をし、
魂が家の棟を離れて、浄土へと向かいます。生まれて100日経つと食い初めをし、
しっかり肉体と魂が固定されていきます。
亡くなった人は百か日の法要をして、
この世に未練を残してはいけないと悟るわけです。
まとめると、
生まれる時、魂が肉体になじみ固定化するための儀式をします。
3才から5才くらいまで不安定で、それ以後、しっかり魂が肉体と重なり、
この世の暮らしで、さまざまなことを学び体験していくのです。
死を受け取るときは、魂と肉体が離れるための儀式をし、
無事、もといた世界に帰っていけるように、
生きている人たちが供養をするのです。
昔は、子どもは神の国からきたと大事にされ、
また老いることは、神に近づいている人と考えられ、尊敬されたのです。
こんな尊い伝承が、残念ですが、今では紙くずになってしまいました。
空也が見たもの
中には、自分が亡くなっていくことを知っている人もいます。
また迎えにきた神仏を見る人もいます。
平安中期に活躍した天台宗の僧で空也というお坊さんがいます。
念仏を弘めたお坊さんで、京都にある六波羅蜜寺に、
重要文化財の立像があります。
特徴として、口から6体の阿弥陀仏の小像が出ている仏像です。
これは空也が南無阿弥陀仏の6文字を唱えると、
阿弥陀如来の姿に変わったという伝承を表しているといいます。
空也は亡くなる時に、み仏が迎えに来たのが見えたようです。
そのことを『人生を見きわめた最期のことば』から、
空也のところを引用してみます。
天録3年(950年ごろ)9月11日、
尊崇を集めた70歳の空也の死が訪れる。
浄衣を身に着け、香炉を手に、西方に向かって正座をすると目をつむった。空也の顔が微笑みに似た柔和さに包まれる。
そして周囲の弟子たちに、無覚の聖衆来迎、空に満つ
とつぶやいた。
空也の目には、自分を浄土へ導くために現れた聖衆の姿が
はっきり見えたのだろう。空也が求め、信じ、説いてきた念仏の末の法悦である。
空也はその姿勢のまま息を引きとった。
手中の香炉は傾きもしなかったと伝えられている。(講談社 『人生を見きわめた最期のことば』)
無覚は、悟り深いという意味で、
悟り深い仏様たちが迎えに来たということです。
それがひとりでなくて、多くの仏たちが迎えにきて、その姿を空也は見たのです。
このように徳高い人は、自分が死ぬことを知り、
迎えに来た仏たちを見ることができるわけです。
そして、すみやかに肉体から魂が抜け出て、浄土の世界に昇っていけるのです。
亡き娘から
徳高い人だからこそ、と書きましたが、
一般の人でも、自分が死に近づいているということを知る人は多いのです。
次の投書を読むと、自分の死を知っていると思われるのです。
それもたった5才の女の子です。
「亡き娘から『ありがとう』」という題で、46才の女性の投書です。
亡き娘から「ありがとう」
1月に、5歳の一人娘が天国へ旅立ちました。
病気一つしたことがなかったのに、
インフルエンザで突然の出来事でした。ただ不思議なことに、亡くなる1か月前から、
自分の死を知っていたかのような言葉を繰り返していました。「死にたくない」「ママに会えてよかった」「ママのことは忘れない」――。
娘のいない毎日がつらく、涙を流す日々です。
しかし、亡くなった後、娘が大事にしていたキティちゃんの袋から
私あての手紙が見つかりました。そこには「ママ、ありがとう」とありました。
私を選んで生まれ、幸せな一生を送ってくれたと思えました。
私も娘にお礼を言いたかったのですが、かないませんでした。それでも、今はそばにいて見守ってくれていると信じています。
(読売新聞 平成30年5月21日付)
1か月前から、「死にたくない」とか「ママに会えてよかった」
「ママのことは忘れない」という言葉から察しても、
このお母さんが言っているように、自分の死を知っていると考えても、
いいのではないかと思います。
人間として生まれてきて、短い間ではあっても、
自らの心を磨き、よき体験をし、死によって、
肉体から離れた魂が、あの世の美しい世界に帰り、
そこからママを見守ってあげているのではないかと思います。
さまざまな体験
私たちは人間として生まれてきて、
この肉体と魂がしっかり溶け合いひとつになって、
この世を生きる土台ができ、この世でさまざまな学びや、体験をしていきます。
生と死の奥義
死ぬのならば、散るように。
生きるならば、枯れることなく。(ガンディー)
この肉体が使えなくなったら、桜の花が散るように逝き、
この世で生きる時間が許されているのなら、
いつも若々しく、前向きに生きていく。
老いて枯れてしまった肉体に生き方を翻弄されず、
生ある限り、この世で多くの学びをし、
人間としての人格を磨き、そしてお迎えがきたら、
この肉体にとらわれなく、散るように去っていくのです。
(つづく)