善なる光を当てる
前に「正直に生きる」ということが出てきました。
この生き方も大切な生き方です。仏教の基本の教えに、
善いことすれが善い結果が出、悪いことをすれば悪い結果が出るというものがあります。
異熟果(いじゅくか)と言って、善いことをしても、
なかなか善い結果が現れないこともありますが、
最終的にはこの法則が人生を決めるといえます。
アルバイトをしてレジの担当をしていた21歳の男性が、
レジに来た高齢者の女性が封(ふう)の開いたポテトチップスを持ってきたので、
やぶれてしまったと思った男性は「今、代わりを」と言うと、
女性は「これ食べたのよ。どんな味かと思って」という。
ある高齢の男性は空(から)のペットボトルを持ってきて、
「これ先に飲んだから、会計よろしく!」と言ったそうです。
このレジを担当していた男性は、もっとマナーを守ってほしいと。
これなどは、悪なる行動でしょう。人として恥ずかしい生き方です。
苦難のなかでも、そこにどんな光を当てるかで、
幸せになったり不幸になったりします。
ダウン症という健常者にはなかなか理解できない苦るしみも、
光の当て方で、人生の厚みをいただけたり、至福の境地をいただけたりします。
私たちはこの世に、美しい風景を見るために生まれてきました。
悪を止(とど)め、善を大事にしながら、たくさんの美しい風景を心に刻む。
そこに悔いのない人生を得ることができます。
「たいせつなものは目に見えない。心の目で見ないと見えない」という言葉がありました。
やさしさも愛も慈しみも、そして思いやりも目には見えません。
見えないけれど、確かにあって、私たちを幸せに導いてくれます。
みな尊い善の姿です。
苦難にあっても、その意味を探し、美しい想い出にしてしまう。
そんな生き方を自らに問い、生きていきましょう。