我(が)を捨てる
「善いことは、実に難しい」とお釈迦様も語っています。
さらにこうも説いています。
善き人々は遠くにいても輝く、
雪を頂く高山のように。善からぬ人々は近くにいても見えない、
夜陰に放たれた矢のように。(『真理のことば』中村元訳)
よりよく生きるためには善を行うということです。
その善を行なったよき人は、遠くからも見える。
知ることができるということです。
そうでなくて悪を行う人は近くにいても見えない。
見えないように知られないように悪を行うからです。
夜放たれた矢のように、見えないように悪をするのです。
善を行うために大切なことは、
心の中に「我」(が)を住まわせておかないことです。
我とは自分本位の思いであり、自分にとって楽(らく)で、
やすきを優先する思いです。
我を取ると、素直な自分になれるのです。
お釈迦様の「善いことは、実に難しい」というように、
なかなか我が取れず、素直になれない自分があります。
「していただいたことに感謝してはどうですか」
と言われても我があると「ありがとう」が言えない。
「人の良い点を見た方がいいですよ」と言われても、
悪いところばかりに目がいってしまう。
「相手の気持ちを、もう少し察してください」と言われても、
自分のことばかり気になる。
みな我がそうさせて、よく生きられなくなるのです。
ここでひとつの投書から学んでみましょう。
56才の男性で「妻と病床で和解」という題です。
「妻と病床で和解」
結婚して妻を実家に迎えいれた。
だが、母との折り合いが悪く、
3年ほどして、私たちは家を出た。数年後、母は突然顔色を悪くし、病院に運ばれた。
完治が見込めない病と分かり、母に事実を伝えなかった。駆けつけてきた妻と母との対面は何かぎこちなかった。
後で知ったことだが、2人はその場で互いにこれまでのことを謝り、
母は妻のことを「いいお嫁さん」と看護師さんに話したという。どういう因縁か、母の命日は妻の誕生日と同じになった。
「お母さんが好きだったお菓子を持って、墓参りにいきましょう」
今年もそう妻から誘われた。(読売新聞 平成26年5月11日付)
こんな投書です。
結婚して、妻を実家に迎えたのですが、
母との折り合いが悪かったのです。こ
こでのテーマでいえば、互いの心に「我」が住んでいたのです。
だから素直に、互いを認めることができなかったのです。
それが病院で再会した時、
互いが今までの至らなさを謝り和解しました。
互いが「我」を心の家から追いだしたのです。
「お母さんが好きだったお菓子を持ってお墓参りにいきましょう」
と夫を誘う。しかもその日は奥さんの誕生日。
よく生きる姿が、とても美しく見えます。
この男性は愛知の人で、しかも平成26年の出来事です。
「善きことは遠くにいても見える」
とお釈迦様が言われたように、遠くにいても、
また時間を超えて善きことは、多くの人に感動を与えるものです。
よき運をためておく
よりよく生きるためには、
さまざまな考え方があると思いますが。
最後にひとつ日ごろから運を貯(た)めておくことが大切になります。
ある人は祖母から教えてもらった言葉を
大事にしているといいます。次のような言葉です。
ごみをポイ捨てする人は、その人の持っている幸運まで捨ててしまう。
人のごみまで拾える人は、捨てた人の運も一緒に拾う。
名言だと思います。
そしてもう一つの名言は、萩本欽一さんの書いた
『ダメなときほど運が貯まる』(廣済堂新書)の中にある言葉です。
努力した人の元へ運がやってくる。
よく言われる「石の上にも3年」という諺があります。
冷たい石の上でも、3年の間坐り続ければ、その石もあたたまるということから、
どんなことでも我慢強く努力すれば、必ず成功するという意味です。
私自身この言葉から、
「1年修行すればお寺の住職になれるから、修行は1年でよい」
と言われたのですが、3年修行に行ってきました。
萩本さんは、この本の中で「石の上にも5年」と言っています。
ひとつのことを長年努力することで、運が貯まるというのです。
貯まった運は、困難にあったとき必ず助けてくれ、支えてくれ、
よく生きるための力になってくれるはずです。