人によって見る世界が違う
次に、富める心を持つ人と、貧しい心でいる人の
見る世界が違うということを考えてみます。
たとえば、お寺に屋根屋さんが来るとします。
当然、屋根屋さんはお寺の屋根を見るでしょう。
本堂に瓦(かわら)がのっていれば、その瓦の状態を見て、
どこかおかしいところがあれば指摘して、
早く修理したほうがよいと助言するかもしれません。
お寺に庭屋さんが来ました。
庭屋さんはどこを見るでしょう。
庭木や石などの配置を見たりします。
いつだったかお寺の松を見て、すぐに
「この松には虫がついているなあ」と言ったことがありました。
私にはまったく気がつかないことでした。やはり見るところが違うと思ったものです。
お寺にお参りに来る人はどうでしょう。
当寺に木造作りで、210センチほどの高さのお地蔵様が祭られています。
霊験があって、遠くからもお参りに来られます。
願いが叶うと七種類のお菓子をお供えし、感謝の思いを手向けます。
先日、願いが叶ったと言って、
七種類のお菓子をお供えしていった人がいました。
その方はお地蔵様にお会いしに、お寺に来るのです。
ですから、何を心の中で思っているのか、何に関心を持っているのかで、
それぞれ見る世界が違ってくるのです。
相手の気持ちに寄り添うと、尊い世界が見える
家族でも、相手のことをちゃんと知って見ていると思っていても、
なかなか相手の真なる姿を見るのは難しいものです。
自分のことばかり考えているような貧しい心では、
夫婦間でも見える世界が違ってくるのです。
ここで一つの投書を載せてみたいと思います。
「妻を亡くして、気が付く」という題で、77才の男性の方の文です。
「妻を亡くして、気が付く」
妻がこの世を旅立ち、一周忌を迎えることになりました。
几帳面な妻は、体が悪いときでも、いつも家のことを支えてくれました。
一昨年の夏に体調を悪くし、病院に行くと即入院。
入退院を繰り返すうちに、家族が呼ばれ、「余命何カ月」と言われました。
一瞬頭が真っ白になりました。それから昨年6月に亡くなりました。妻を亡くして、よりどころを失い、どうしてよいやら途方にくれる毎日。
できるだけ多くの人に会うようにし、同じ境遇の人がいかに多いか知らされました。
2、3年は心の整理がつかないと知り、前向きに生きようと考えました。妻を亡くして、初めてわかったのは、2階の物干し台が高いということです。
何も不満を言わず、毎日洗濯物を背伸びして干していたことを考え、涙しました。最近、近所の人たちの温かい心遣いに感謝しています。
人との触れ合い、言葉を交わし、心を通わせることがいかに大切か、
つくづくわかってきました。近所の人の話を聞きながら、
だんだん心の整理もついてきたように思います。尊い命を精いっぱい生きることが、妻への何よりの供養と思っています。
(朝日新聞 平成25年6月12日付)
妻と共に暮らしていた時と、妻亡き後の見方が違っています。
特に初めて気づいたこと、それは物干し台が高いことでした。
そのことを何の不満も言わずに毎日洗濯物を干していた妻。
それを思うと涙がこぼれたと書いています。
人の気持ちを思う、富める心から出てくるしぐさです。
どん欲の心が見える世界は、どんな世界でしょう。
怒りや不満の思いで見る世界は、どんな世界でしょう。
よく餓鬼地獄に堕ちると、目の前の水が火に変わってしまうといいます。
どん欲であると水が火に見えてしまうのです。
不満の思いで暮らしていれば、相手の悪い所ばかりが目に写り、
出る言葉は小言ばかりになります。
堺雅人主演の「鎌倉ものがたり」という映画がありました。
黄泉の国に魔物によって連れ去られた奥さんを
堺雅人が扮する一色正和が、あの世に助けにいきます。
その時、先に逝った父が、正和に
「ここは自分の思っている世界が見える」
と言っていました。
肉体を離れて魂になれば、自分の思う世界があの世で展開するのです。
餓鬼の心を持つものは、あの世が火の海に見え、
菩薩の心を持つものは、あの世が光り輝く世界に見えるわけです。
であるならば、今生きている時に、富める心を育て、
その心に従って人としての大切な「しぐさ」に心がけ、
今生きている内に、たくさんの美しい世界を見ることがとても重要になります。
少しでも多く、美しい世界を見て、幸せ満ちた日々を送る。
富める心のなす「しぐさ」です。