法話

人生の隠し味 3 自分のとっての隠し味

心の内に秘めておく大切なこと

仏心にはさまざまな姿があります。
そのひとつでもいいので、自分の隠し味として持っていることが大切です。

私が20代後半に、
京都にある本山妙心寺の教化センターの研究委員として、
2年ほど学んだことがありました。

その時、どなたかに
「あんたは、ぼんぼんやろ!」と言われたことがあったのです。
「ぼんぼん」とは、良家の若い息子という意味がありますが、
その時は、そんな意味でなくて、どうも「何の苦労もしていない奴」という、
そんな意味で言ったのだと察(さっ)したのです。

それ以来、その言葉を一つの教訓として、
何が私に足りないのだろうと思い自己を尋ねてきました。

このお話のテーマで考えると、
人としての隠し味が生かされていないことだと思います。

それから30年ほど過ぎ、平成23年11月に、
友人であった京都の長興院(ちょうこういん)の住職から、
新しく本堂ができたので落慶式に来てほしいという手紙を頂きました。
その時はちょうど都合がつかず、お祝いの気持ちだけを送らせていただいたのです。

後日、その友人から電話を頂き、落慶式の様子を報告してくれました。
その時、本堂新築にあたり、本尊様も痛んでいたので、修理に出したそうです。
お寺に、お寺を守ってくださる本尊様がいない。
そう思うと、友人は「淋しくて淋しくて、たまらなかった」と言うのです。

その話を聞いて、尊い思いを得ることができたのです。
私のお寺でも、もし本尊様がなかったら
生きていけないほど淋しく悲しい思いになるでしょう。
毎朝毎晩、み仏様に礼拝できるありがたさを改めて感じたのです。

「そうだ私の人としての隠し味は『信心』であった」と、そのとき思いました。
ひたむきにみ仏様を信じ生きてきたことが、
私の隠し味になってきたのではないかと思っています。

この『法愛』をお読みのみなさんも、自分の生きる隠し味を今一度再確認し、
味わい深い人生を生きてほしいと思います。

人生の隠し味は、美しい人生を必ず作りだします。

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