ぬくもりを感じる力
このぬくもりは、どんなものにも宿る力があるのです。不思議ですね。
どんな粗末なプレゼントでも、そこに相手を思うぬくもりをこめると、
そのプレゼントが、とても大切な宝物になるのです。
人のぬくもりばかりでなく、人の思いは物に染み込み、力を持つといえます。
そして人は思いが染み込んだ「物」を介して、互いの思いを感じ取っているのです。
これは高度な精神的力といえますし、霊的な力ともいえましょう。
手書きのハガキや手作りの衣装、あるいは一杯のお茶、
食事や床の間に飾られた一輪の花など、そんな物にぬくもりという思いが宿ります。
物ばかりでなく、優しい言葉にも笑顔の中にも、
あるいは互いが交わした握手の手の中にも、自分のぬくもりという思いを宿すと、
その思いが相手に通じていきます。
そんなぬくもりを感じ取っていく力を育てていくと、
相手を思う気持ちが自ずと培われていくような気が致します。
一杯のお茶の中に
まだ若い頃には全国のお寺さんをまわって、お話に歩いたことがあります。
あるお寺さんに行くと、山門から玄関までの石畳に水が打ってありました。
この水を打つというのは、大切なお客さまが来る時の最高のおもてなしといえます。
清浄にするわけですね。
そこにお寺さんのぬくもりの思いを感じます。
水を打った石畳にも、ぬくもりの思いが宿るのです。
玄関には赤い絨毯(じゅうたん)がひいてあって、
そこのお寺の和尚様がていねいに頭を下げて迎えてくれます。
赤い絨毯も、お客さまを迎えるおもてなしなのです。
座敷に通されると、床の間に禅僧の書いた軸が掛けてあり、
その横には花がいけられています。
座布団の上に座ると、お菓子と、
茶卓に蓋(ふた)つきのお茶椀で、お茶を出してくれます。
そんな一つひとつの行為の中に、ぬくもりを感じ取りながら、
お寺さんの接待を受けたことが、幾度となくありました。
昔、お葬式は自宅で行うことがあたりまえで、
今のように葬儀専門のセレモニーホールではありませんでした。
そんな自宅での葬儀で印象的に覚えている「一杯のお茶」の話があります。
ある檀家さんのお葬式に行ったとき、
喪主の家に上がって最初、一杯のお茶をいただいたのです。
そのときの接待役の人が若い女性でした。
他の和尚さんたちと話をしながら、お茶のくるのを待っていました。
ちょうどその時は、私の近くでその女性がお茶を入れていました。
何気なくその女性のほうを見ると、急須からお茶碗にお茶を注ぐとき、
緊張して手が震え、上手にお茶を茶碗の中に入れられないのです。
急須と茶碗がぶつかり合ってカチカチなります。
それを見ていて、「ああ、私のような坊さんにもお茶を入れるときに、こんなに緊張するのだなあ」と思い、出されたお茶をしみじみといただいたことがありました。
あのお茶を入れる一女性の姿は、忘れられない大切な想い出になりました。
そのお茶の中にも、一人の女性の思いが込められたのです。
そんなお茶のなかに、その女性の精いっぱいさを感じ取れる力が、
私たちにはあるのだと思います。
食事の中にも
食事でもたまには外食をしたり、忙しいときには、
セブンイレブンなどのコンビニでお弁当を買って食べることがあります。
一度なら美味しく食べられますし、たまになら飽きずに食べられます。
でも一週間も食べ続けたらどうでしょうか。結構きついものがあります。
飽きてしまうのです。
家ではどうでしょう。私の家内殿が作ってくださる食事は、不思議と飽きません。
もう30年以上にもなりますが、今でも美味しくいただいています。
私のお寺の女性部のみなさんにも、役員になると法話会などに、
何度か自分の作ったお料理を、お重に詰めて持ってきていただいています。
これは布施の心からきている有り難い報恩の行いなのですが、
このお重も美味しいのです。
一人ひとりの味が違っていて、
お参りに来られた方々も、美味しくいただいています。
布施は無償の思いが大切なのですが、
無償の思いで作ったお料理が、また人を喜ばせるのです。
きっと作った方のぬくもりがそのお料理の中に入っていて、
それを感じ取りながらいただくので美味しいのだと思います。
手のぬくもりの中に
このぬくもりは物ばかりでなく、
笑顔や、やさしい言葉、手のなかにも添えることができます。
「ありがとう」という言葉でも、形式的にいう言葉と、
心から思って出てくる「ありがとう」の言葉は違っていて、
それを私たちも見分けることができます。
昔「お客様は神様です」と言っていた、歌手の三波春男さんがおられました。
私が小さい頃は「少し偽善的な言葉じゃあないかなあ」と思っていましたが、
これは誤解で、三波さんの苦労を乗り越えてきたゆえに出て来た言葉だと知ると、
重みのある言葉として受けて止められるようになりました。
人の思いを受け取るにも、
自分の人格を磨いていかなくてはならないことを知らされた言葉です。
ある新聞の「ここに幸あり笑いあり」というコラムの中に、
近藤重勝さんという方が「手の力」という文を書いていました。
今日の話にそって、重要なところを少しまとめてみます。
近藤さんが病気になって、手術後、全身、管だらけの身体になり、
医師もどうしてよいか分からなという気配で近藤さんを見ています。近藤さんは医師の許可を得て、ヒーリング系の音楽テープを枕元で聞いて、
何とか発作に耐えていました。そうしているうちに看護師さんがそばに来て、
「大丈夫ですよ」と手をしばらく握ってくれたのです。するとどうでしょう。手のぬくもりが伝わってくるとともに息もゆったりしてきて、
やがて発作も治まったのです。遠藤周作さんのエッセイに、麻酔も効かず苦痛でうめいている肺がん患者が、
やはり看護師に手を握られると少しずつ静かになっていく話が書かれていました。自分の手ではふれたこともない心ですが、人の手はふれてくるのです。
それにしてもあのときの看護師さんの手はほんとうにありがたかった。(毎日新聞 平成17年7月14日付)
こんなような意味の文章でした。
ここで看護師さんの手のぬくもりが、病気の痛みを癒してくれました。
看護師さんも心を込めて、痛みが取れるようにと思い手を握ったのでしょう。
その看護師さんのあたたかな思いを感じ取って、奇跡的に痛みが取れたわけです。
さらに近藤さんは、「人の手は心にふれてくる」と書いています。
やさしい思いの手が、心にまでふれて、癒してくれるわけです。
思いは相手の心の中にまで染みわたって、相手を幸せにするのです。