今月から数回にわたり、「徳ある人生」というテーマでお話をしたいと思います。
これは平成18年に喫茶店法話でお話ししたものです。
少し書き変え文章にしてみます。
徳の定義
徳は見えないので、徳が何であるかを理解するのは難しいと思います。
たとえば、ここにリンゴの木があるとします。
その木が徳であるとすると、そのリンゴの果実がやさしさであったり、
まごころであったり、慈しみの思いであったりします。
その果実を食べていただくことが、リンゴの木の幸せなのです。
またその果実を手にして食べた人も、幸せになれます。
それが徳の姿のような気がするのです。
人でいえば、その人の心の中に、たくさんの果実が実っていて、
それがやさしさであったり、まごころであったり、慈しみの思いであったりします。
その果実を他の人に分け与えてあげるのが喜びであり、
そのやさしさという果実を手にした相手が、また幸せになっていける。
そんな人を徳ある人といえると思います。
ですから徳とは
「自分が幸せなることが、他の人の幸せになっていける力」
とも表現できましょう。
これは一つの徳の定義として考えられます。
思いがやがて形となる
この徳の姿を目で見るためには、どうすればいいのでしょう。
目に見える世界は、確かなものとして、私たちの前に現前としてあります。
この喫茶店の中でいえば、まず机があります。
机は見ることもでき、触れることもできます。
お茶の入っている湯のみも見ることができますし、お菓子も見ることができます。
お菓子の種類も判断でき、好きなお菓子であれば食べることもできます。
徳というのは姿が見えないので、
どのようにその徳を見、判断していいのか分からないわけです。
そこで「どのような思いであり、どのような考えであるか」ということを理解すると、
徳の姿が少し見えてくるような気がするのです。
それは思いや考えが、やがて形となって現れてくるからです。
思いによって変わる万年筆の姿
ここに一つの黒色の万年筆があるとします。
多くの人は、この万年筆を、その大きさも色も同じように見えるでしょう。
でも、この万年筆を持っている人に深い思いがあると、
同じような万年筆でも違って見えてくるのです。
たとえば、
この万年筆は父が亡くなった時の形見としてもらったという思いがあれば、
万年筆は一般の人が見るよりも違った姿に見えてきます。
この万年筆は大切な人からプレゼントされたものと思えば、
また違ったように見えてきます。
あるいはたまたま公園で拾って警察に届けたのだけれど、
落とし主が見つからなくて、自分のものになったと思えば、
また違ったふうに万年筆が見えてきます。
あるいは、この万年筆はアメリカの大統領であったリンカーンが使ったものである、
となるとまた違ったふうに見えてきます。
ですから同じ万年筆でも、その人の思うところによって、
万年筆の見方が変わってくるわけです。
とても、不思議ですね。
思いが行動に現れる
この思いはやがて行動にまで現れてきます。
悲しい思いであれば、悲しい顔になり、
楽しいときには笑顔になります。
不満に思えば、不満の顔になり、
言葉にも不平不満の言葉が出てきたり行動にも現れてきます。
今着ている服も、その人自身の現れで、
お年寄りはそれなりの服を着ますし、若い人は若いなりの服を着ます。
それは心に思っていることが服装にも現れるからです。
少し前に結構売れた『人は見た目が9割』という本がありました。
その中に人を判断するものは、顔の表情が55%、声の質で38%、
そして話す内容が7%と書いています。
結構、顔の表情で人を判断する率が多いのです。
ひげを生やしている人は、自分を実際よりも上に見せたいとか、
サングラスは、自分の素性を知られたくないと書いてあります。
服装に関してこんなことも書いています。
東京の新宿、歌舞伎町で、警察が未成年を補導する場合、
対象が未成年かそうでないかの見分けがつかない時に、
対象が大人びた服を着ていたら未成年で、
子どもっぽくみせていたら年がいっていると判断するようです。
ともかく、心に思っていることが行動に現れるのです。
こう考えてくると、
心に悪いことを思っていると外見にもそんな姿が現れ、行動にも出てくるし、
善の思いで心を満たしていると、そこに徳の姿や行動が現れてくる
ということになります。
よく分かるのは漫画です。
悪者は悪者らしい顔を描き表現しています。
それは心に悪い事を思っているからです。
テレビで放映している「水戸黄門」なども、
悪役の人はそれなりの顔をしていて、すぐ分かるように演じています。
主役の水戸黄門は穏やかで威厳のある顔をしています。
徳は実際には見えませんが、人の外見や振る舞いに徳は現れてくるのです。
ですから、人の姿や行動を見て、徳を見ることができるわけです。