法話

光の世界 5 「光を生きる」

死を受け取ることの重大さ

誰しもが、死ななくてはなりません。そのために、葬儀にかかるお金や身の回りを整理して、いつでも死を迎えられるようにする人もいらっしゃるでしょう。

死んで終わりという人は、そんなこともしないかもしれませんが、死を受け取るというのは大変なことなのです。

そのための準備をしっかりしておかなくてはなりません。それはお金もそうでしょうし、身の回りを整理しておくことも大切でしょう。でもそれ以上に必要なのが心の準備なのです。

心の準備とは、心の姿を見られても恥ずかしくない生き方にしておくことです。私たちは外見はよく見えますが、心の中は見えません。その心の姿を見ることのできる神仏がいるとしたらどうでしょう。

亡くなって必ず、浄玻璃(じょうはり)という鏡で生前の心の姿が映し出され、その生き方を問われるという、そんな世界があるとしたらどうでしょう。

これは絵空ごとではなく、死んで後、実際に起こってくる事実なのです。

そうであるならば、生きているうちに、心を正し、できることならば、自分の心を菩薩のような心に変えていく努力をしなくてはなりません。

死と生は一つのもので別のものではありません。生きているうちに死後の世界の真実を悟り、光の世界を生きることが必要です。

光の世界とは、正しく生きる教えを指針として生きる日々の中にあります。その生き方が、この世の幸せにも通じていきますし、また死んで後の世界まで通じていくのです。

死をもっと切実なものととらえ、生きなくてはならないと、私は思っています。

善を生きる

光を生きるとは、言葉を換えていえば、善を生きるということになります。善を積むということです。

人の生涯はそれぞれで、同じ生き方をする人はいません。環境もおかれた立場、役割も違います。

晩年には耳が聞こえなくなったり、眼が不自由なる人もいるでしょう。寝たきりになったり、独りで死んでいかなくてはならない人もいるかもしれません。

でもどんな状況に陥っても、善を積む精神を忘れてはならないと思います。
善を積む日々は厳しいでしょうが、それが必ず幸せへの道を切り拓いてくれるのなら、怠ってはいけないと思うのです。

晩年耳が聞こえなくなっても、笑顔を絶やさなかったおじいさんがおられました。92才で亡くなったとき、家族のみなさんが感謝の思いを書いたものがあります。

いつもお穏やかな人柄で、ニコニコしていて、
涙のでる時もおじいさんの一言で頑張れました。
根気強く働き、いつも笑い顔で、怒った顔を見たことがありませんでした。
まわりの人のことをよく気にかけ、優しいおじいさんでした。

「穏やかであるとか、ニコニコしている、根気強い、優しい、まわりの人のことを気にかける、怒ったことがない」、みな菩薩の生き方です。
このような人を善に生きる人、光の世界を生きる人であるといえます。

簡単なところに、善はあります。ただ、それをどれだけ持続し生きていけるかにあります。

死を受け取るとき、善に生きた人、光の生き方をした人は、心の姿を見られても恥ずかしくなく、生前に生きた心と同じ善なる世界、光の世界へ還(かえ)っていくのです。

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