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みにミニ法話

(127)「神仏の心」

私たちが何気なく使っている言葉に、
やさしさとか正直、思いやりという言葉があります。

生きていくための大切な言葉、生き方と思われますが、
これらの言葉はいったいどこからきたのでしょう。

人々が生活する中で、これがよいのだと思って決めてきた言葉でしょうか。

私はもっと深い意味がこの言葉の中に隠されているような気がするのです。

この優しさ正直、思いやりといった言葉はどこからきたかと推測すると、
おそらく、大いなる存在から、この生き方こそが人々を平和に導くものだから、
という意味を込めて、降(お)ろされてきたような気がするのです。

この大いなる存在を宇宙のエネルギーといっても、
天といっても、神仏といってもいいかもしれません。

そんな神仏の存在を信じる人が少なくなってきて、
人間が万物の中で一番偉い存在だという傲慢な考えになると、
やさしさも思いやりも自分たちで作ってきた言葉だとなっていきます。

でも、なぜ地球が回っているのかも知りませんし、
花々がなぜあんなにきれいに咲くのかも、科学的に説明できないでしょう。

花々といっても、地球にどれくらいの種類の花があるでしょう。
その種類の多さをも説明できないでしょう。知らないことばかりです。

私たちを取り巻く世界の中には、見えない大きな存在があって、
そのみ心の中で生かされているのが私たちであるという原点を踏まえ信じて、
正しい生き方を判断していくことが大切なように思えます。

これらのやさしさとか正直さ思いやりも、
見えない存在である神仏が、人間の愚かな行動や欲多き考え方を戒めるため、 互いが助け合って暮らしていくことを望んで教えられた言葉ではないかと思われるのです。

神仏の存在を手に取って見せることはできませんが、
日常のありふれた言葉の中にも神仏の心が宿り、
幸せを願っていることを忘れてはいけないような気がします。

神仏の存在を素直に感じ、やさしさのなか、正直さのなかに、思いやりのなかに、
神仏のみ心を感じとってみてください。きっと幸せに包まれることでしょう。