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みにミニ法話

(222)「慈しみの風を吹かす」

慈しみの風を吹かすというのは、
出会う人ごとに慈しみの思いも持って接するということです。

そのためには、自分自身が、慈しみの風に吹かれ、
生かされていることを実体験することです。

自分自身が、支えられてある、
慈しみの中で生かされているということを知っていないと、
相手に慈しみの風を吹かすことはできないと思われます。

慈しみは、花からも動物からも、雲や木々、月や太陽、
そして家族や、嫌いな人からもいただいて、今の私があります。
そのことをしっかり体得していることが、一つの悟りです。
その前提があって、初めて、慈しみの風を吹かせていくことができるのです。

ここまでは体得できなくても、
「いつも支えられているから、何か自分のできることでお返ししていこう」
と思っていると、素直に慈しみの風を吹かせることができます。

「思い考えること、その事がその人自身である」
という考え方がありますが、思いや考えが仕事をするのです。

「いつも支えられているから、誰でもいいからお返しがしたい」
といつも念じていると、どこでも、どんな時でも、
身体が自然にうごいて、人を助けることができます。

この世は神仏の慈悲の思いで作られていると言われています。
ですから、この世界から神仏の姿を発見しようと思えば、
慈悲の思いを感じとっていけばいいわけです。

桜の花はすでに散ってしまいましたが、
その花の美しさの中に慈しみの思いを感じ見ていけば、
そこに神仏の姿を見たことになります。

桜の花びら一枚いちまいが風に吹かれて散っていく様子は、
非常に無常を覚えますが、その散り方にも美しさがあります。

その花びらが天に舞っていくようすや、川の水面に落ちて、
川が桜の花びらでピンク色に変わっているところを見ると、
また、なんともいえない美しさを思います。

そこに神仏の慈悲の姿を重ねていくと、神仏の姿を見ると共に、
慈悲の美しさと清らかさを見ることができます。

このように、すべてに慈悲を見て感じていくことが、
自分でも慈悲の風を吹かせる力になり、
またその瞬間に神仏と重なっている自分に気がつくのです。
それは深い感動を覚えるときでもあります。