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みにミニ法話

(209)「光の存在」

春になるとまわりが温かくなり、花が咲きだします。
これは春の光があふれてきているからでしょう。

その意味で、光は相手の力を引き出すとともに、
あらゆるものを育む力があるといえます。

仏様の仏像の背に光背(こうはい)がついています。
これは光を現わしていて、悟りの深さや慈悲の深さを現わす意味で
つけられているのです。

ですから光は、悟りの深さや慈悲としての現れでもありましょう。

「光は即仏様」であるというのは、
説明しにくいのですが、間違ってはいないと思われます。
そんな光がどのような思いで私たちを照らしてくださっているのでしょう。
そのことを感じ取ることが大事であると思います。

ある女性の投書をお読み致しましょう。
「ナデシコの花」という題です。

「ナデシコの花」

先日、次女を出産し、二児の母となりました。
お産入院中は長女と離れることになり、実家の母が面倒をみにきてくれました。

入院のタクシーを待っているとき、見送る娘は黙ってうつむき、
足もとに咲いているナデシコの花をちぎっては投げ、ちぎっては投げ・・・。

普段は「お花きれいね。ママ」と指でゆっくり花をなでる子。
離れるのを察し、1歳9カ月ながら、瞳に涙をためて必死にこらえている娘を見て、
私のほうが泣いてしまいました。

待ちに待った退院の日、帰宅した私の姿に娘は満面の笑み!
と思った次の瞬間、感動のあまり、大泣きをしながら、飛びついてきました。
両腕に二人の子を抱きしめ、この先、何があっても、この子たちを守るのだと、
久しぶりに我が家の優しい香りに包まれながら心に誓いました。

(よろこびのタネまき483)

こんな投書です。

「両腕に二人の子を抱きしめ、この先、何があっても、この子たちを守るのだ」
と言っています。

このときお母さんから光が出ていたことでしょう。

相手を思う気持ちが光の存在です。
光であるみ仏の思いも、いつもこのような思いです。
その思いは見えませんが、光となって、その在り方を示しているのです。