ホーム > 法愛 4月号 > みにミニ法話

みにミニ法話

(197)「神仏の姿」

ごく普通に考えても、神仏の姿を見ることはできません。
見えない存在だからです。

見えれば、皆が信じ、神仏を礼拝するのですが、
見えないところに、また私たちの修行の課題があるのかもしれません。

今までにこの世に現れた聖賢たちは、
どれほど、神仏を証明することの難しさを思ったことでしょう。

自分自身は霊的に見え、分かるのですが、
凡人である民衆にそれを示しても信じる人は少なかったからです。

まず神仏の姿を見るためには、
神仏の存在を信じることが唯一の条件でしょう。
神仏を信じないで、神仏を見ることのできる人は
あまりいないと思われるからです。

特別に使命を受け、この世に現れた人は、
必ず奇跡的な神仏との出会いをしています。
マザー・テレサもそうでしたし、ナイチンゲールも神を見ています。

凡人には、そんな大きな使命はないと思われるので、
神仏との出会いはないかもしれませんが、人の姿の中にも、
神仏を見ることはできるのです。こんな詩があります。

「仏さま」という詩です。81才の男性の方が書かれました。

「仏さま」

2才3カ月の孫が 桃を食べている
おいしいと聞くと おいちいと言います
そして おじいちゃんと言って 桃を差し出します
孫の顔が仏さまに見え 食べかけの桃をいただきます
ああ わたしも何か 人にしてあげたい
さっき自転車置場で
倒れていた自転車を 横目で見てきたけれど
あれを起こしてくればよかったなあ

こんな詩です。
孫が桃をくれて、その孫が仏様に見えたと書いています。

自分が美味しく食べている桃を、
おじいちゃんにもくれた孫の優しい心根に、仏の姿を見たのです。

ですから、孫がしたように、
このおじいちゃんも何か人にしてあげたくなりました。
人に素直な気持ちでしてあげている人は、仏様かもしれませんね。

私たちも、この男性のように、
仏さまのような姿を見られる素直な心も持っていましょう。
きっと日々、仏様に囲まれて暮らしていることを知るでしょう。