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みにミニ法話

(165)「死を受け取る」

江戸時代前期に活躍したお坊さんで、
大きな愚かと書いて大愚という和尚さんがおられました。

大愚和尚があるとき、子をなくした母のために葬儀を出してあげました。
引導をあげ、ねんごろに供養してあげたのです。

子の母は救われた気持ちになりましたが、
葬儀の終わったとき、大愚和尚にこう質問したのです。

「私の子は和尚様の慈悲深い引導を受けることができました。
まことにありがたいことです。
ところで、はたして死んでから、わが子はどこへいったのでしょう」

それを聞いた大愚和尚は、ハタと我を失い答えることができません。
母は、大いに悲しみ、そこを静かに去ったのです。

大愚和尚は自ら反省し
「私はすでに悟ったと思っていたが、この母の質問に答えることができなかった。
情けないことだ。こんな悟りでは寺にとどまっているのも恥ずかしい」
といって、住持していたお寺を出て、再び修行に出たのです。

仏教の世界では名を残した大愚和尚でも、
若いころは「人が亡くなってどこへいったのか」という質問に答えられなかったのです。

そしてその未熟さに奮起して修行に励み、
おそらくこの質問に答えられるようになったと推測します。

今月のテーマの「死を受け取る」ためには、
前提として死後の世界がちゃんと存在するということと、
死後、自分はどこにいくのかをちゃんと知っておかなくてはなりません。

「善因善果、悪因悪果」といって、
善いことをすれば善い結果がで、悪いことをすれば悪い結果がでる
という法則があります。

生前、善を積み生きた人は善い世界に生まれかわり、
悪を犯した人は悪なる世界へ生まれる。これが真実です。

そうであるならば、死を受け取るためには、あの世の存在を確信し、
また自分が今どれだけの善を積みながら日々を送っているかを、
自らに問うことから始まります。

ちなみに、最初にお話しした子を亡くした母は、
子はまだ汚れが薄いので、あとはあの世の存在を知らせてあげ、
そちらの世界へちゃんと帰るように告げ、見えない世界に住まわれているみ仏様に、
我が子が無事あたたかな世界へ帰られるように守ってくださいと祈ることです。