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みにミニ法話

(158)「永遠のいのち」

私たちは長生きをしても百年です。
ですから、永遠のいのちなど遠い夢の世界のように思えます。

この肉体は「おぎゃあ」と生まれて死ぬまで生き続け、休むことがありません。
そして、肉体がその使命を終われば、死が来て、もう二度と動かなくなります。

それで人間の生涯は終わりである、と考えれば、
永遠のいのちは「おとぎ話の世界」のものになってしまいます。

これは「死んだら、それでおしまい」という考え方です。

しかしほんとうにそうであるならば、
ずいぶんこの世の生き方や価値観は違ってくるでしょう。

人間は安きに流れるのが常ですから、
毎日を楽しく自分の思うように暮らしていけばいい、
という人が多くなっていくはずです。

葬儀やその後の供養もいらなくなるでしょう。

果して、「死んだらそれでおしまいか」といいうことです。

この悟りは誰でも持てる考え方です。
小学生でも、年を得た人でも、です。
これは苦行をしなくても得られる悟りといえます。

お釈迦様は「死んだらおしまいだから、しっかり生きよう」と悟られたのでしょうか。

カピラの城を抜け出し、六年もの苦行をされ、
2500年もの間、人々を救い続けてきた教えを説かれたその根底の悟りが、
「死んだらおしまいだから、生きているうちにしっかり生きよう」
というものであったなら、この誰でもが得られる悟りを、いったん疑いを持って見、
その内容を吟味する思慮深さが必要です。

そうではなく、お釈迦様は、人は
「生まれかわり死に変わりをして、多くの学びをし、人格を向上させ、
向上させては、また人びとの幸せのために生まれては、働き生きる」
という世界を見られ、その視点から、さまざまな教えを説いたのです。

生まれかわりをする本体は
「永遠のいのちを持ち、決して老いないし、死にもしない」
力を持っている。

これが「般若心経」の中にでてくる
「無老死」(むろうし)のところに伝えられている真実です。

そして「永遠のいのち」の行き着くところは、
個性を持ちながら、母なる仏そのものに回帰していくことです。

そんな深い悟りを基本としながら、このいのちを大切に生ききり、
自らを磨いていくことの重要性を知っていましょう。