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法話

よき縁の旅 3 みな、よき縁に代えてしまう

先月は「よき縁を作っていくために」というお話でした。

イエス様に会えないアルタバンの話と、
彼が持っていた真珠が、みんなの心の中にあって、
その真珠で、みんなを幸せにするために生きていく。

そして感謝がよき縁を作っていく大切な生き方であるという、
そんなお話でした。続きです。

過去に起ったこと

過去に起ったことで、嫌なことや損をしてしまったこと、
あるいは失敗したり、それで辛くてたまらなかったこと。
また親しい人との別れで悲しみがいつまでも自分を苦しめていること。

そんなマイナスの思いを、
自分の内にある尊い真珠を大きく育てていく力にしていく。
そのように生きることが、自分にとってよくない縁を、
よき縁に代えていくことができるようになります。

読売新聞の「編集手帳」の欄に、中村梅之助さんの話が載っていました。
中村梅之助さんは、平成28年1月18日に85歳で亡くなっています。
4代目の中村梅之助を名乗り、初代「遠山の金さん」を演じたのが有名です。

中村さんが14歳の時のことです。
信州の山里に預けられたのは終戦の前年で、疎開者にまで食料がまわりません。
「働かせてください」と、見知らぬ農家に押しかけて、
稲刈りを手伝わせていただいたのです。

お昼のときに、中村さんが持ってきた少しの麦飯を見た農家のお嫁さんが、
表情をこわばらせ、やおらその弁当を取り上げて豚小屋にあけたのです。

あっけにとらわれている中村さんに女性は、
新米の白いご飯をギュウギュウに詰めた弁当を返してくれ、
「これは、いま食べちゃだめ」と言って、
赤ん坊の頭ほどあるおにぎりを別に3つこしらえて、
「さあ、お昼にしよう」と、中村さんに渡したのです。

中村さんは、ありがたさに流れる涙と一緒に、そのおにぎりを食べたといいます。

(読売新聞「編集手帳」 平成28年1月21日付 )

辛い想い出を、「順風の時は感謝を、逆風の時には身を励まして生きる」という教訓にし、
辛い出来事を、人生を生きぬくためのよき縁にしたのです。

ネズミとミッキーマウス

イソップ物語に「ネズミとウシ」という物語があります。

ネズミが餌を食べていると、ウシがいいました。
「このチビ、ネズミは食い意地がはっていて、
 ドブのなかでもゴミの中でも平気でとって食べる。
 卑しい奴だ。恥を知れ」

ネズミは怒って、ウシにかみつき、
すばやく壁の小さな穴に逃げ込みました。
ウシは後を追いかけ、壁を何度もたたきましたが、びくともしません。

ウシが疲れて寝ていると、再び穴から出て来たネズミが、
もう一度ウシにかみつき、穴に逃げ込みました。そして言いました。
「大きくて力のある者が、いつもすぐれているとは限らないんだ。
 ときには小さくて卑しいことが、武器になることもあるんだ」と。

こんなお話です。

小さなネズミが大きなウシに意見をしています。
絶対かなわないようなネズミが、勝ち誇って言っているのです。

ここから自分の弱点だと思っていることが役に立つ、そんなこともあるのです。
よき縁のテーマから言えば、拙い自分であっても、
時にはそれが、自分を守る強い力になることもあるということです。

ネズミといえば、ミッキーマウスを思い出します。
このキャラクターを考え出したのが、ウオルト・ディズニーです。
世界最大級のテーマパークである、「ディズニーランド」の創立者です。

このミッキーマウスを作り上げたのは、そんなに簡単ではなかったのです。
初めはオズワルトというウサギ(ラビット)だったのです。
このウサギで大きな成功を納めていたのですが、契約上のトラブルで、
別の会社に権利を取られてしまいます。

こまった彼は、考えました。
イソップ物語にあるように、ネズミは小さくて卑しく嫌われものです。
でも、飼いならしていたネズミをヒントに、
このネズミを今度は、ミッキーマウスとして考え出したわけです。

名前をつけたのは奥さんのリリアンさんだそうです。
それが成功して、今では誰でも知るネズミになりました。

成功していたウサギのキャラクターを取られた悪い縁を、
あきらめずに次のキャラクターを考え出すというよき縁に代える。
才能といえば、そうかもしれませんが、誰でも努力をし続ければ、
悪い縁をよき縁に代えることができるのではないかと思います。

アコヤガイという貝

アコヤガイという貝は真珠を作ります。
体内に異物が入ると、その異物を核として、真珠層をまく性質があるといいます。
異物が体内に入ると、その痛みを和らげるために、
丸い真珠を作って自分を守っているともいえます。

私たちも、そんな異物のような、自分にとって不幸な出来事をよき縁に代えてしまう。
そんな生き方も必要です。

こんな詩があります。
「めぐみ」という題で、56歳の男性が書かれた詩です。

めぐみ

貧乏に恵まれて
働く幸せを知り

孤独に恵まれて
愛する喜びを知り

鈍才に恵まれて
努力の楽しみを知り

病気に恵まれて
恵まれた人生であったと
知ることができた

(産経新聞 平成28年7月16日付 )

こんな詩です。

ここに出てくる貧乏、孤独、鈍才、病気が人生の異物といえます。
その異物があったからこそ、働く幸せ、愛する喜び、努力の楽しみ、
そして恵まれた人生であったと知ったという詩です。

投書の男性は、自分の人生の異物を真珠のような輝きを放った人生にしています。

私も詩を書きますが、
深い人生観を表現した詩で、優れた生き方を持った方だと思います。

私たちの自分の内に苦難という異物が入り込んだら、
その異物を恵まれた人生へと代えていく知恵が必要です。

よくない縁から離れる生き方もある

いつもよき縁があればよいのですが、
自分の何ら関係のない悪い縁からは離れてしまうのも大切です。

たとえば、こんな話があります。

あるパーティーで、シャンパンを手に取って立っていると、
突然1人の男が、わざとぶつかってきて、シャンパンがこぼれ、服を濡らしてしまいました。

「何と失礼な奴だ。何の恨みがあってこんなことをするのだ」と思う。
その男を見ていると、違う人にも同じようなことをしています。

このとき、いつまでも心を乱し、「あの男が許せない」と思っていると、
幸せから遠ざかってしまいます。

そこで、こう思うのです。
「ああ、あれは彼の問題だ。私の問題ではない。
 私があの人のことで、心を騒がせている、そんな筋合いではない」
と考え方を代え、気分を転換してしまうのです。
その悪い縁を切り捨ててしまうわけです。

並んでいるレジで先をこされて、私の前に立った。
「これは、あいつの問題で、悪いことをすれば、悪い結果がでる。
 私の問題ではない」
そう思い、心乱さず、レジを待てばいいわけです。
そんな悪縁から離れてしまう。これも幸せを得る、ひとつの方法です。

よき縁の旅 4 みな、よき縁を作ってあげられる側に立つ

筆という道具

よき縁を相手に与えてあげる、
そんな場合、まず自分の利点を見極めておくことが必要です。

たとえばここに習字の道具があるとします。
筆、紙、墨汁や墨(すみ)、文鎮や、紙を置く下敷きなどです。
筆にもたくさんの種類がありますが、筆を文鎮にするわけにはいきませんし、
文鎮で字を書くのも無理な気がします。

筆が墨汁にはなりませんし、紙で墨の役割はできません。
それぞれに使い方があって、その役割を理解し知っていることで、
それぞれの道具の役割を活かすことができます。

人も同じです。自分には何ができるのか。自分の役割はどうなのか。
それをしっかり知っていないと、よき縁を作り出すことができません。

世の中にはたくさんの仕事があります。
それぞれの立場で、その仕事をこなし生活しています。
でも人と筆の違いは、人は「どのような思いで仕事をしているか」があり、
筆にはそんな思いはありません。

筆も道具としての役割を充分に果たしてはいるのですが、
どのような気持ちで、どのような考えを持って、
筆が筆としてあるのかなど考えてはいないでしょう。

人のすぐれているところは、自分の役割に、どのような考えを持ち、
どのような思いでいるかを持つことができるということです。

たとえば、食事を作るにしても、ただ食べるためだけに作っているのではなく、
どうすれば美味しく食べてもらえるのかを考え作る人もいます。
相手の栄養を考えたり、好き嫌いを考えたり、あるいは
「どうして私が作らなくてはいけないの」
と不満な思いで作る人もいるかもしれません。

できれば、どんな仕事でも、相手の幸せを思い、
相手が喜んでもらえるようにと、自分の気持ちを整えていく生き方が尊いわけです。
それが自分の役割を活かし、また利点にもなって、よき縁を作っていきます。

足もとに幸せはある

人の思いはさまざまですが、
幸せになれないという思いがあれば、幸せになれないし、
幸せになりたいという思いがあれば、幸せの縁が引き寄せられてきます。

思いの大切さを、45歳の女性が書かれた
「四つ葉を探したら・・・」という投書からか学んでみます。

四つ葉を探して・・・

体調を崩してから、朝夕の散歩を日課としている。
いつも土手に出ると、シロツメクサが辺り一面に広がっていた。
急に思い立った。

「四つ葉のクローバーを探そう」

子どもの頃に何度も探そうとしたことはあったが、
ついぞ見つけることはできなかった。

心のどこかで、見つけられるわけがないと思っていた気がする。
こんな三つ葉だらけの中から四つ葉を探すなんて無謀じゃないかしら。

大人になってから何かで読んだ。
四つ葉を見つけるひけつは、そこに必ずあると信じることだと。
私は今、自分の病気が治ると信じている。
四つ葉を探すのはきっと今だ。

人に頼るのが苦手でせっかちの私が今、
家族や友人、近所の人たちに助けられながら生活している。
感謝の気持ちしかない。

きっとこれまでも支えてもらっていたのだ。
私が気づかなかっただけ。
シロツメクサの上にしゃがみこむ。
今は助けてもらおう。甘えさせてもらおう。

10分ほどして見つけた。
それはなんと五つ葉だった。

笑いがこみあげ、それから少し涙が出た。
信じる。足元に幸せはきっとある。

(朝日新聞 平成28年6月8日付)

こんな投書です。

この女性はおそらく、病気で苦しい思いをしているのだと思います。
その体験を経て、支えられていることに気づいたのです。
そして信じています。病気が治ることを。

さらに自分の足元に幸せがあることを信じています。
そんな思いがこの女性を幸せにしているのです。
幸せになるという思いが、幸せになるための縁を引き寄せるのです。

そして、この投書を出した女性の役割が、私たちにも多くの学びを与えてくれます。
よき縁を作って与える側に立つ、そんな女性の生き方です。

支え続けている言葉

最後に一つ詩を載せて、この章を終わります。

母が与える側に立ち、それを知った娘さんが、負けずに生き抜いている。
そんな詩です。54歳の女性の詩です。よき縁を与える、尊い生き方です。

愛ある言葉

運動会で
見知らぬおじさんが
俺、事故で入院したとき
あんたのお母ちゃんに
そらぁ世話になってん
あんたのお母ちゃんは
ほんまに優しい
ええ看護婦さんやった
と言ったその言葉が
一人の少女を
支え続けていることを
きっとおじさんは 知らない