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法話

よりよく生きるために 1 どのように生きるか

今月から「よりよく生きるために」というテーマでお話を致します。
このお話は平成26年5月29日、
121回目の「法泉会」という法話会でお話ししたものです。
ずいぶん時が過ぎていますので、少し書き直しながら進めていきます。

生きるということ

多くの人が、ごく普通の生活を送っていると思います。
歴史に残るような生き方をする人は稀で、
そのような非凡な人の生き方ではなく、それぞれの立場で、
どう生きていくのが、よりよい生き方かを考えていきます。

今、新型コロナウイルス(3月上旬現在)が蔓延し始め、社会不安になっています。
当寺で3月に行われる「春の法話会」も中止にしました。

どこから伝わっていったのか知りませんが、デマ拡散ということで、
全国の小売店でトイレットペーパーやティッシュペーパーの
買い占めが相次いでいるといいます。

心配なことはわかりますが、よりよく生きる観点からいえば、
少し過剰な行動のような気もします。

「どのように生きていけばよいか」というと、とても難しい問いですが、
できることなら幸せな日々を送りたいし、
相手に対しても幸せになってほしいという思いをいつも心に抱いている、
そんな生き方が理想かもしれません。

ある女性の生き方

このお話(平成26年)を考えていたとき、ある女性の方が亡くなられました。
人としてどう生きてきたかを教えてもらえる生き方であったので、
葬儀の時にお話ししたものをここに載せてみます。
できればこんな生き方をして、あの世に帰りたいと念じます。

杉山(仮名)さんは、数えで89年の生涯を閉じられました。
しっかりものの旦那さんを、いつも柔らかなほほえみで見守り、
また子どもさんたちを大切に抱き愛し、お孫さんをほほえみの手で包みこみ、
ゆえに、子どもさんやお孫さんからも大事にされ、
杉山さんにとって幸せな一生であったと思います。

最期は枯れるように亡くなっていきましたが、
「亡くなるときは、みんなこんなふうになって、
 身を捨て、身体に重なっている御魂が天に帰っていくのよ」
と、教えてくださった慈悲の姿であったと、通夜のお経を読みながら思いました。

護国寺の本堂の内陣から垂れている二つの飾りは
幢幡(どうばん)といって、天の仏様の世界をあらわす飾りです。

これを本堂の建設のときに、旦那さんとお二人でご寄付してくださいました。
寄付の行為は、欲を捨て、心が広くないとできないものです。

「笠地蔵」という日本昔話があります。
おじいさんが正月の買い物にと、作った笠を売りに町に出かけます。
途中の道脇にあった六地蔵様が雪におおわれて、
あまりにもその姿を見て哀そうに思い、
売ってお金にするはずだった笠をお地蔵様の頭にかぶせ、
そのまま家に帰ってきました。
そのときの事情を聞いた奥さんであるおばあさんが、
正月のお餅のことはせめないで、「あなた、いいことをしましたね」と答えて、
旦那さんにほほえみかける。
そんなおばあさんのような心根、雰囲気を持っていた杉山さんでした。

杉山さんのことを、家族のみなさんが語ってくれました。

人の立場に立って考えることの大切さを教えてくれました。
ひょうきんなところもあって、いつも笑わせてくれましたね。
お母さんは太陽でした。そして私にも言ってくれたのです。
「あなたも太陽のよう」。そう褒めてくれました。

お母さんは、私の心の支えでした。
心と言葉のキャッチボールのできる人でした。
いつもニコニコと笑顔でいて、私のオアシスのような人でした。
私たちのことを何でも見抜いていましたね。
頑張れといつも励ましてくれました。

あなたがいなくなって淋しくなりますね。
私もやがて逝く人になりますが、あなたとそちらで再会するまで、
残された時間を大切に生きていきます。今までほんとうにありがとうございました。
杉山さんの御魂が、仏様の慈悲のみ手に抱かれ、
無事浄土の世界に昇っていけますように、お別れの拝礼を致します。

どのように生きたか

こんなお話を致しました。
この中で杉山さんの生き方を家族の方が書いてくれています。

ここで学ぶことは、その人の生きた職業や肩書でなく、
どのように生きたかが大切だということです。

どのような女性であったか。どのような母であったのか。
どのような坊さんであったのか。どのような先生、医師、看護師であったのか。
さまざまです。

ここで、この女性のどのような生き方をしたのかを五5つほど取り出してみます。

①人の立場に立って考える生き方。
②太陽のような生き方。
③相手の心の支えになった生き方。
④いつも笑顔で、みんなのオアシスのようになっていた生き方。
➄何でも見抜いて、「頑張れ」と相手を励ます生き方。

杉山さんが生きた人生が思い返されます。
「どのような生き方をされましたか」と問われ、もし、1番の
「できるだけ、人の立場に立って考えられる生き方を心がけてきました」
と答えられれば、よりよく生きたといえます。

心の奥底にある思い

「人はみな何が尊いかを心の奥深くで知っている」
そんな感じを持ったことがあります。

たとえば私が確か小学生のころだと思います。
日曜日、昼食を取って、疲れていたのか昼寝をしたのです。
ぐっすりと眠り、起きたのが午後3時ごろ。
そのとき思ったことが「こんなことをしていてはいけない」という思いでした。
「怠けていてはいけない、努力しなくては・・・」ということです。

こんな思いを小学生のとき抱いて自らを叱咤したのです。
この思いは、心の奥底から湧き出て来た。そんな感じを覚えています。

その尊い思いが、大人になるにつれて、
不平や不満を持ったり、上手くいかなくて怒ったり、
あるいは過度の欲望で心が乱れていらいらしたりして、
心がくもり汚れて感じ取れなくなってくるのです。

今年2月18日、神戸市の「子ども家庭センター」に、
2月10日の午前3時ごろ、家を出されて保護を求めて来た小学6年の女の子を、
「警察に行って」と言って、追い返したということがありました。

インターホンで話をしたのが数秒だったといいます。
そのときの当直の職員は「女児の見た目や言動から緊急性がないと思った」
と言っていたようですが、大きな事故につながらなくてよかったと思います。
自分本位な思いが感じ取れます。

杉山さんの3番目にあった、
「相手の心の支えになる生き方」を忘れてしまったと思われます。
これも、心のくもりからくる間違った生き方になってしまったと解釈できます。

ここで一つの詩を紹介します。
65才になられる女性の方の詩です。「方程式」という題です。

「方程式」

数字を入れて解く
ばかりが
方程式ではない

不平は不満を呼び
不満は心を汚していく
汚れた心はぬかるんで
足が抜けにくくなるのよ

初夏の風を入れ
方程式を
やり直してみようよ

(産経新聞 平成26年6月29日付)

こんな詩です。

不満は心を汚し、そのため心がぬかるんで、足が抜けにくくなる。
そう書いています。不満ばかり言っていると、不幸のぬかるみに入って、
よく生きることが難しくなるのです。

禅で求めている心は清浄心です。禅寺の庭が、常に掃き清められているのは、
清浄なる思いを大切にしているからです。

その清らかさから出て来る思いが仏心(ぶっしん)といわれる心です。
私たちがみな持っているその仏の心を上手に使っていくことが
よりよく生きる方法でもあります。

息もつかずに読破

お歳が98才で、この『法愛』を読まれている男性から、次のようなハガキをいただきました

拝啓 五月の風強ければ強い程、鯉のぼり元気よし。
本日は待望の法愛、夢光月(ゆめひかりづき)を御恵贈賜り
感謝と御礼を申し上げます。

仰せの如く、前向きで確(しか)りと
眞剣に其の日を生きていく指要に勉めます。

頂くや息もつかず読破。花の聲のごとく
益々奮励努力を誓い、乱筆恐縮乍(なが)ら
貴台様の御健勝と御活躍を祈願合掌。

申し上げ御礼迄に、皆様によろしく御鳳聲(ほうせい・手紙に対する敬称)の程を。
敬具 

(平成26年5月6日 カッコは筆者)

こんなハガキです。

98才らしい、国語力に優れた文章です。
この『法愛』を息もつかずに読破というところに頭が下がります。
そして、98才でも、前向きに真剣に生きていくと書いています。
生きぬく力と、よりよく生きようとする思いが伝わってきます。

十王信仰の意味

この男性から以前、十王堂にお参りするので、その意味を教えてください
というハガキをいただいたことがありました。

十王信仰の細かな説明ははぶきますが、
平安時代に、この信仰が盛んであったと伝えられています。
この十王信仰がよりよく生きることに繋(つな)がっているのです。

十王堂は十の王が祀られているお堂ですが、
その中心的な立場にいる王が閻魔大王です。
人は亡くなると閻魔様の前で生前の罪が問われるというのはよく知られている話です。

人が亡くなりあの世に行って、閻魔様の前で問われます。
「あなたは、どのように生きてきたのか」と。
みなさんはどう答えるでしょうか。

閻魔様の前で嘘をついても、すぐばれてしまいます。
というのは私たちがこの世に生まれると、
俱生神(ぐしょうしん)という神様が一緒に伴って降りてきて、 昼夜の区別なく生前の善悪を記録するというのです。
右の方に男神である同名(どうめい)という神様が善を記録します。
左の方には同生(どうしょう)という女の神様が悪を記録しているのです。
閻魔様の前では、素直に答えなくてはなりません。

そんな裁きを亡くなってから受けるのは大変なので、
生きているうちに、十の王様に日頃の悪を反省し、
あの世に行ったならば生前の罪を減軽してもらえるようにご供養するのです。

宇宙にロケットを飛ばすことのできる現代では、
このような俗信は夢物語のような気もしますが、
昔の人の素直な信仰心は尊いものではないかと思います。

「どのように生きてきたのか」という閻魔様の問いを、
他人事と考えず、自分の問いとして受け止めることが必要です。

小さな痛みをなくしておく

どう生きてきたかは、人それぞれでみな違います。
全く同じ人生を生きた人は一人もいません。
みな違った課題を受け、この世に生まれてきたからです。

そして、今できるならば、
心に何らかの後悔や痛みを感じていることがあれば、
生きている内に反省し解決しておくことです。

こんな投書を読んでみましょう。
48才の女性で「あちらで父は」という題です。

「あちらで父は」

昨年父が亡くなり、納骨を控えた夜、夢を見た。
その3年前に亡くなった母が出てきて「お父さんが来ないのよ」という。

父は旅行先で、フラッと姿を消すことがあった。
そのことを思い出し
「そうなの? どこ行っちゃったんだろうね」などと返事をすると、
母の姿は見えなくなり、そこで目が覚めた。

普段ならすぐ忘れてしまうのに、しばらくしても覚えていた。
そしてハッと気付いた。もしかして父はまだ、
あちらの世界にたどり着いていないのでは……。

(中略)

私が気難しい父とは相性が合わず、ほとんど実家に帰らなかった。
介護するようになり、ようやく向き合えた。

玄関の梅がきれいな花を咲かせた時には、
植物が好きだった母の代わりに毎日手入れしていることを知った。
母が私に、父とふれあう時間を設けてくれたのかもしれない。

それでも、最期はあっけなく逝ってしまった。
遺影を見るたびに、母の時には感じなかった小さな痛みが胸の奥に刺さる。

(朝日新聞 令和2年2月19日付)

生前、お父さんの善いとこを見てあげ、
ふれあう時間を持つことができたならば、
心の痛みはなかったかもしれません。

さて、お父さんはどこにいったのでしょう。

(つづく)