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法話

心の籠に花を摘む 4 小さな花も大切に摘む

先月は、「心の籠に花を摘む方法」というお話をいたしました。
自分の体験や人から学んだこと、さらには相手の良いところを見て、
大切なものを心の中に摘み取っていくという、そんなお話でした。続きです。

小菊のような笑顔

ある新聞(毎日令和元年10月30日)に、
「ダウン症出生率『横這い』波紋」という記事が載っていました。

その記事によると、国内のダウン症の出生率を推定した結果が、
2010~16年の7年間、毎年2500人で横ばいとありました。
そしていまだに偏見や差別意識があるのではと、書かれていました。

その記事の中に「『不幸』決め付けないで」というテーマで、
あるご夫婦のことが書かれていました。

40代のこのご夫婦に18トリソミーという障がいを持つ子が生まれたのです。
あまり聞かない病気ですが、18番染色体が通常より多いという病気です。
この病気は知的障害や心疾患(しんしっかん)を伴うことが多く、
一般に短命であると言われているようです。

この子が産まれて、主治医はマイナスの話ばかりをこのご夫婦に語り、
一時は「産むのは間違いであった」と思うほどでした。
その子を育ててすでに6才になるようで、共に暮らしてきた体験から
「笑顔で見つめると笑い返してくれる時や、家族にしか出さない声で甘えてくる時。
他人から見たらちっぽけでも私たちには十分幸せ」と思うようになったというのです。

秋になると野菊が咲きだします。菊作りの名手は大輪の菊の花を咲かせますが、
野に咲く小さな菊の花もとても愛らしく、小さな花ですが、
その野菊の笑顔に心を癒されます。

障がいを持ったこの子の笑顔も、このご夫婦にとって、
他の人から見ればちっぽけなものであるけれど、
とても大切な幸せを与えてくれると言っています。
小さな笑顔が、心の籠に摘まれ、幸せの時を子どもからいただいています。
健常者であっても、小さな子の笑顔は幸せを運んできます。
そんな小さなことですが、その大切さに気付くと幸せが広がっていくのです。

小さな幸せの花を見つける

小さな幸せを見つけるために、どう生きていけばいいのでしょう。

先月の10月には台風15号や19号、
さらには低気圧の影響でずいぶん雨が降り、長野県でも千曲川が決壊し、
多くの家屋が水につかり、大変な惨事になりました。
被害を受けなかった人たちもみな、
平穏無事の生活がどれだけ尊いかを知りました。

こんな惨事があって、何が幸せであるかを振り返ることも大切なことですが、
平穏無事の生活の中でも、たくさんの幸せを見つける工夫が必要です。
その一つの方法が感謝の思いを深めるということです。

人は往々にして日々の有難さを忘れがちになります。
あたりまえという言葉がありますが、水道から水もお湯も出て、
スイッチを入れれば電灯がともり、テレビが映る。ボタンを押せば、
湯加減を自動で調整してお風呂にお湯がたまり、
ポットに水を入れればお湯になる。
夏はエアコンで涼み、冬は暖房になる。
そんな生活が続けば、あたりまえと思ってしまいます。

食事に足りないものがあれば、コンビニに行けば必要なものが買えるし、
自動車でどこへでも出かけて行くことができる。便利な生活はありがたいのですが、
それが当然と思ってしまうと、幸せであることを忘れてしまいます。

家族がいて、互いに笑顔で話しを交わすことは奇跡のような尊いことなのに、
それを忘れてしまい、お互いの欲の主張ばかりをして、
いがみ合ってしまうこともあります。

そんな当然であたりまえの生活の中に、
感謝という雫(しずく)を一滴そそぐと、ぱっと心の目が開けたように、
「ああ、これは当たり前の生活ではないのだ」と知り、
一つひとつの事ごとに幸せを感じるようになります。

お母さんありがとう

先月の10月27日に、ある特別養護老人ホームの家族会でお話をしました。
演題は「人としての認知症を考える」でした。
認知症でない健常な人でも、人の生き方を正しく知らないゆえに、
間違った生き方をしてしまうことがある。

だから、人としての生き方をよく認知し、幸せな日々を送ってほしい。
そんな趣旨のお話でした。

その中で、3章目として
「出会いの尊さと、別れの悲しみを知る」というお話をしました。
別れの悲しみを癒し、自らの人生の深みをつくるためにも、
縁で出会った人に、何か尊いところ、
良いところを見つけ出すことが大切なのではないかとお話ししたのです。

そこで一つの詩を紹介しました。
55才の女性の方の「お母さん」という詩です。

お母さん

車椅子の母に
くつ下を
はかせてあげていると

自分が ふうわり、
まあるい存在に
なっているような
気がしました

子どものいない私を
お母さんにしてくれる

―――母。

(産経平成30年12月2日)

こんな詩です。子どもがいないのは淋しいことですが、
母を介護する中で、母が私をお母さんにしてくれると書いています。
とても幸せそうに見えます。
どうしてこのような尊いことに気づいたのでしょう。

おそらくここには母に対する感謝の思いがあったのではないかと推測します。
育ててくれた感謝ゆえに、くつ下をはかせてあげる行為の中に、
幸せを感じることができるのです。

水道から水が出る。
ありがたいことです。

そう心に念じると、その一瞬に幸せを感じることができます。
そんな小さな幸せを心の籠に貯金するのです。
その貯金は決して消えない尊い心の財産になっていきます。

信じる心について

先月号で「人の生き方を学ぶ」の章で、お釈迦様の徳を積むために、
4つの心の在り方をお話ししました。徳を積む1番目が「信じる心」でした。
この信じる心が、人生の困難を乗り越えていく大きな生きる力になっていきます。
この信じる思いを心に枯れずに生かし続けていくことです。

哲学者の西田幾多郎が『善の研究』の中で、こう書いています。

世には往々にして何故に宗教が必要であるかなど尋ねる人がある。
併(しか)しかくの如き問いは何故に生きる必要があるかといふと同一である。

(ふり仮名は筆者)

宗教は神仏の存在を信じることが基本で、
「神などいない、信じない」という生き方は、
生きる必要がないという考え方と同じであると解(かい)することができます。

今回のテーマでお話(平成25年11月28日)をした、
同じ月の11月17日に、山梨の勝善寺の婦人部のみなさんが、
私の法話を聞く目的と、野の花観音にお参りしたいということでお寺に来られました。
そのときのお話は「信心の舟に乗る」という演題でした。

そこで「思うようにならない濁世(じょくせ)の世で、
自分の力のみで泳いでいくばかりでなく、信心の舟に乗り生きていく」
ということをお話ししたのです。

信じる心には三つの姿があります。
まず自らの心の内にある良心(仏心)を信じること。
次に相手の良心を信じてあげること。
三つ目に大いなる存在である神や仏を信じること。
この三つが挙げられます。

お地蔵様の霊験(れいけん)

この三つ目の信じる心について、お地蔵様の話をしました。
このお話は松谷みよ子さんが書かれた「現代民話考Ⅳ」に出て来るお話です。
そのまま載せてみます。

岐阜県安穴(あんばら)郡神戸町。
これは主人の実家で五十数年前に本当にあったことです。

主人の弟が四歳で亡くなりました。
その頃主人の父がお地蔵さんの夢をみたそうです。

しばらくして旅先の名古屋で、
その夢にでて来たお地蔵様とよく似た二尺五寸程の地蔵様をみつけてゆずり受け、
屋敷の前の道路脇に御堂を建て供養したそうです。

ある時、真新しい供えものとお線香があがっているので、
どうしたものかと思っていると隣村の女の人がこういうのです。

「実は私の子どもがひどい皮膚病で悩んでおりました。
すると、ある時夢を見ました。その夢はこの村にお地蔵様があって、
お願いすれば治ると言われ、願をかけましたら、
すっかり治ったので、お礼に来たところです」

この噂(うわさ)が近辺に広まって、
道を通って行く人々は今でもお地蔵様をお詣りしていくということです。

話者・宇野まつ
回答者・望月新三郎(東京都在住)

こんな不思議なことも世にはあるのです。
自らの良心を信じ、苦難には神仏と共に乗り越えていく、
そんな生き方が尊いのです。

心の籠に花を摘む 5 心に摘んだ花を分けてあげる

人を支える仕事

この文章を書いているある朝のこと、
新聞の中に「週刊いな」(10月30日)という地方のことを
伝える新聞が広告と一緒に入っていました。
その表紙に笑顔の女性の写真が写っていて、爽やかな笑顔なので、
そこに掲載されていた記事を読んだのです。

この女性(44)はある病院で助産師をしていて、
なぜ助産師になったかが書かれていました。

看護師を目指して通っていた短期大学時代に、
病院実習で低体重児を出産した母親の担当になったというのです。
保育器越しにわが子を見つめる眼差しが本当に優しくて、
「こういう人たちを支える仕事をしたい」と思い、
卒業してさらに別の学校で一年、助産師の勉強をしたようです。
この仕事を続けて20年ほど。
辞めたいと思ったことは一度もないと書いていました。

「こういう人を支える仕事をしたい」という思いは、とても尊く思われます。
助産師の資格を得るために一生けん命学び、
そして人が幸せになってほしいという志を持ち、生きていく。
自らの心に摘み取った花を誰かのためにささげ使っていく。
そこに人としての尊さがあります。

忘れない優しい笑顔

最近、親が子を虐待する報道が目立ちます。
少し調べてみると、全国児童相談所の調べによると、
平成20年の相談者数は約4万2000件で、
平成29年になると約13万4000件に増えています。
この年、虐待で亡くなった子は49人だそうです。

わが子に優しい思いを分けてあげられる親が少なくなってきているのでしょうか。
心の籠に摘んだ優しい花を、まわりの人に分けてあげる、そんな生き方が問われます。

人は互いが支え合って生きていて、
相手に生き方を気づかされ互いが成長していきます。
ある投書を載せてみます。63才の女性です。
「友人の娘 優しい母の顔に」という題です。

「友人の娘 優しい母の顔に」

人ってこんなに変わるんだと思った。

友人の娘さんに10年ぶりに会った。

彼女は不登校や家出をくりかえす学校生活を送った。
友人は「あんな子は、初めからいらなかったのよ」と言い放っていた。

でも成人してから少しずつ変わっていき、やがて結婚。そして妊娠。
生まれてきた子は未熟児だった。

入院中、未熟児室で見た「忘れられない光景」を、
優しい母の顔で語ってくれた。

看護師さんから言われたそうだ。
「この子を救えるのは、お母さんの愛情だけです。
赤ちゃんの手を握って、声をかけてあげて。
赤ちゃんは小さな体で〝生きたいよ〟って必死に命の闘いをしているのよ」

その時涙が止まらなかったとか。
暖かい春の日、友人の娘さんから、感動をいっぱいもらった。

(読売新聞 平成19年4月3日付)

看護師さんの言葉が光っています。
その言葉を受けて、わが子にたくさんの愛情を注いであげる、
この友人の娘さんの姿勢が尊く思われます。
看護師さんを通して母が子へ愛を与える姿を最後にお話ししました。

このように人それぞれに心の籠に摘み取った尊い体験を活かして、
それを他の人の幸せのために使っていく。
そこに生き甲斐のある人生が得られ、さらには、
相手の幸せのためにしたことが、自らの喜びとなって返ってくるのです。