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法話

心の籠に花を摘む 1 心にみな籠を持っている

今月から「心の籠に花を摘む」という演題でお話を致します。
このお話は6年ほど前に、「法泉会」という法話の会でお話ししたものです。
118回目の法話会でした。
少し時が過ぎていますので、必要なところは書き換えて進めていきます。

何でも入る心の籠

「心の籠」というは一つの喩えで、
心にさまざまな思いがありますが、
その思いが心の籠の中に入っていると考えるのです。

心の籠に、どんな思いが入っているかで、
その人が幸せになったり、逆に不幸になったりするのです。
幸せとか、幸せでないという観点でなくても、
その人の人格や生き方、あるいは行動も違ってくるのです。

心の籠の中には花のような美しい事ごとや嬉しい出来事も入るのですが、
一方で悪い思いも入るのです。悪い思いのほうがたくさん入っている人の心の籠は、
もしかすれば幸せでないかもしれません。
また、人生に不満の多い生き方をしてしまうかもしれません。
できるならば、悪い思いは捨てて、たくさんの善い思いを入れて、
幸せであってほしいのです。

ある日、ニュース(令和元年8月30日)を見ていましたら、
あおり運転のことを報道していました。
最近はこのあおり運転が問題になっています。

ここでのニュースは、道路をある車が走っていると、
道脇から急に入ってきた車が、その車の前で、止まったり走ったり、
走ったり止まったりして嫌がらせをします。
やがてあおり運転をしていた車が路上で止まり、
男が車のドアを開けて外に出、あおり運転をされていた車に文句を言いに来たのです。

そこで驚いたが、文句を言ってきた男が、衣を着ているのです。
僧侶なのです。
この僧侶は書類送検をされたそうですが、同じ職業の者として
「ああ、なんて恥ずかしいことを」と、思わずにはいられないニュースでした。

この僧侶の心の籠には何が入っていたのでしょう。
不満や怒りといった、人を不幸にしてしまう思いが入っていたのかもしれません。
ほんとうは悩める人がいれば、
その悩みを取ってあげられる側にいなくてはならない立場だと思います。
残念です。

ある人の心の籠に入っているもの

人の一生を顧みるのは、その人が元気なときよりも、
亡くなったときかもしれません。

亡くなって人は、改めて故人のことを回顧し、
どんな人であったかを思い出します。
今は亡き人が心の籠にどんな思いを持って生きてきたかを、
大切に思い返すことができます。

最近、私のお寺で亡くなられた女性の方がいらっしゃいます。
亡くなられたときに、どんな女性であったのか、
どんな生き方をされたのかを家族の方にお聞きし、
また私自身も思い返しながら、引導やお話を作りました。

次の文章は、女性の生前の生き方を考え、葬儀のときにお話ししたものです。
このお話の中に、亡くなられた女性の心の籠に、どんな思いが入っていたのか、
どんな生き方が集められていたのかを察することができます。

ここに〇〇さんは数えで八十七年の生涯を閉じられました。
心を荒立てず、静かなほほえみが印象的な人でした。
白く小さく、しかも可憐な姿をしたユキノシタとい花がありますが、
そんな花に似て、目立とうとすることなく、しかも存在感のある、
そんな女性であったと思います。

そういえば野の花観音の32番、「雪かんのん」をご寄付していただき、
雪の花の美しさを重ね合わすことができます。

お寺で毎月行っているお経会にお参りに来られていて、
身体の調子が思わしくなくて少し休みますと、 昨年の7月8日の日を最後に、こられなくなりましたが、
この3月9日に、息子さんと先祖様の法事に来られ、
ご先祖様を思う気持ちの強さを思いました。

共に学んだお釈迦様の教えに
「善いことをしたならば、人は快(こころよ)く楽しむ。
人に知られずしたことであっても、人は快く楽しむ。
幸(さち)あるところ、天の世界におもむいて、さらに快く楽しむ」とありました。

悪を止め善を行ってきた人は幸せであり、
亡くなって後にも、さらに幸せであると説かれています。

〇〇さんも、日々〇〇さんなりにお経会に参じては、
善の大切さを知り、人知れず、善を積んできました。
そんな生き方が、あの世の古里に帰っても生かされ、
きっとあの世で待つ人々との再会を果たし、幸せを得ることでしょう。

護国寺では、最期のお別れのときに、
散華(さんげ)と言って仏様の絵が描かれた、
小さな子どもの、手のひらくらいの紙にお別れの言葉を書いてもらいます。
これはあの世への手紙で、〇〇さんも、その手紙を持って帰れるのです。

その散華に、
「おばあちゃん、いつもおいしい料理を作ってくれてありがとう。
〇〇家に来るときには、おばちゃんのやさしい笑顔を見るのが楽しみでした。
おばあちゃんを見習って、いつも家族みんなで、笑顔で暮らせるように頑張ります」

また、こんなお別れの言葉もありました。
「私はおばあちゃんが本当に大好きでした。
そばにいるだけであたたかな気持ちになりました。
たくさん優しくしてくれてありがとう。
今度は私がおばあちゃんみたいにあたたかくやさしく
自分の子供を育てていくね。見守っていてください」

まだほかに、たくさん書いていただいたのでが、
すべてを語ることはできません。まとめみましょう。

「弱音をはかず、我慢強く、でも優しくて、かわいらしく、
みんなに好かれ、慕われていました。
花が好きで、手先が器用で、いつもニコニコしていて、料理が上手で、
人の悪口や蔭口を言わず、家を大切にし、ノラ猫がなつき、
鯉料理がとっても上手で美味しくて、まわりの人をあたたかく迎え、 みんなに好かれた人でした」

こんな慕われ、善を積んだ〇〇さん。
お釈迦様の「善いことをした人は、天の世界におもむいて、さらに快く楽しむ」
という教えのように、あちらの世界に行っても幸せで、
花のようなほほえみをたたえることでしょう。

そしてあちらの世界から私たちをあたたかく見守っていただけるように念じ、
み仏様のご加護を祈り、感謝の思いを添えて、お別れの拝礼を致します。

亡くなられた女性を送る言葉の中に、たくさんの美しい事ごとが書かれています。
それは彼女が長年培ってきた生き方であり、思いでもあります。
そんな善い思いが、心の籠の中に、たくさんあって、
それを活かし生きて来たことが分かります。

こんなお別れの言葉をいただいて、旅立ちができることを、
この「法愛」をお読みのみなさんとともに念じます。

原風景を思い起こす

誰にでも原風景があると思います。
心の籠の中でも、最も大切な思いです。それを見つけ出し、大切に育て、
きれいな花のように咲かせていくことです。

この原風景というのは、人の生き方に大きな影響を及ぼす幼少期
あるいは特に印象的な体験をいいます。

それは自らが体験したこと、
いつも心に「このように生きたい」と去来する思い、
あるいは誰かに言われた言葉、誰かの行いが、ずっしりと心におさまって、
それを基(もと)に生きたいと強く思ったことです。
その時は気づかないこともあるかもしれません。

ある年の「法愛」(平成29年8月号)に、
静岡市にある臨済寺というお寺で、
雲水(うんすい・坊さんになるために修行している僧)の指導をしている
老師の話をしました。そこに、次のように書きました。

幼いころ腕白であったので(老師のこと)、
母親から「たまには漫画の本でもいいから坐って読んでみせてくれないか」
と言われ買ってきたのが、岩波文庫の『正法眼蔵』上中下の本だった。

これはまさしく幼いころに体験した原風景で、
将来、優れた僧侶になるという、そんな行く末を見る尊い体験ではないかと思います。

私自身も小学生の頃、腕白で本など読む子供ではなかったのですが、
図書館で見つけた『シートン動物記』を手に取ると無償に読みたくなり、
外で遊ぶのも忘れ、図書館に置いてあった7巻をすべて読み、
本とはこんなに面白いものかと思ったことがあります。

その体験をずっと覚えていて、
今では自分の図書館ができました。これも私の原風景です。 

もうひとつ言えば、
私の心にいつも繰り返し起こってくる映像があります。
それは、水たまりの映像です。これも私の原風景かもしれません。

目の前の道に濁った大きな水たまりがあって、
人が通ることができない。どうしようと困っているその人に、
その水たまりを渡してあげたい。

こんな映像です。

昔は自分が水たまりでぬれて汚れても(自分が犠牲になってもいいという意味)、
相手を先に渡してあげたいと思っていましたが、最近は自らも汚れず、
相手を先に渡す。そんな思いに変わってきました。

このように、幼少期に出会った出来事、
あるいは病気をしたり、困難にあったり、
そんなさまざまな体験の中で、自らの生き方をしっかりつかめる体験、
そんな原風景を、心の籠の中心に入れておくことです。

心の籠に花を摘む 2 心の籠の中を整理する

いらないものと必要なものを選(え)り分ける

心の籠の中には、たくさんの思いが詰まっているのですが、
その思いを少し整理してみます。

これから秋です。
木の葉が紅葉し、赤い葉や黄色い葉が散っていきます。
お寺の本堂の前には、沙羅双樹の木と百日紅(さるすべり)の木があって、
次第に葉が木から散っていきます。

沙羅双樹の葉は軽く掃き掃除がしやすいのですが、
百日紅の葉は少し重くて、履いても土と混ざり、
葉とその土や小石と選り分けるのに苦労します。

百日紅は花が長く咲いていて、
日々花が散って、掃除をするのが大変ですが、
きれいな花を掃き寄せるのに幸せを感じます。
紅葉した葉もとてもきれいで、その葉を集めるのも、
掃除から得られる幸せだと思っています。

どうしてでしょうか、この年(平成25年)は、
百日紅の葉が紅葉する前にみな落ちてしまったのです。
掃除も大変で、時間をかけて葉と土や小石を選り分けました。
時間がかかりますが、掃除をした後の庭は、清浄で、
心まですがすがしい思いになります。

掃除をし、まわりのものを整理してきれいにすると、
心まですがすがしく幸せになれるのです。
そのように、心の籠に入っているものも整理するのです。

人生が変わる片付け

片付けで有名な人は、近藤麻理恵さんです。
『人生がときめく片付けの魔法』の本がベストセラーになりました。
今ではアメリカでも活躍していて、
アメリカの雑誌TIMEの「世界で最も影響力のある100人」にも選ばれています。

この年(平成25年)の12月に『婦人公論』で、
近藤さんの「人生が変わる片付け」というテーマで、
4ページほどの文が掲載されていました。
そこに、こんな文章がのっています。

どんな家に住んでいる方であれ、共通して言えることは、
家の中を完璧に片付け終えると、考え方や生き方、
そして人生までもが劇的に変わるということ。
100%の自信を持って言えることなのです。

さらに片づけをすることで、
「心に余裕が生まれた。家族に自然に優しくできるようになった。
夫との関係もよくなった。表情がイキイキしてくる。
人生そのものがときめいていく」
などが、述べられています。

心も同じように、大切なものを残し、
いらないものは捨てることで心の籠の中も整理され、
生き方も変わってきます。

大阪のある小学校で事件(平成24年6月)がありました。
会議中に女性教諭が意識不明になった事件です。

それは同僚の女性の講師が
睡眠剤を導入したシュークリームを食べさせたというのです。
またその女性の運動靴や指導用教科書に「ヤメロ」「バカ」
とフェルトペンで書きこんだのです。
でも、この講師が熱心に指導していた生徒や その保護者には評判がよかったといいます。

同僚の女性教諭には憎しみが、生徒たちには愛情が、
講師の女性の心の籠に入っていました。
その憎しみを捨て、愛情を残し、
心の籠を整理しなくてはなりません。

憎しみを捨て、愛情を残したなら、
きっと人生もよい方へ変わってき、必ず幸せになれます。

(つづく)