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法話

美しき流れの中で、何を学ばん 3 流れを止めようとする思い

先月は「幸せも苦しみも流れていく」というテーマでお話し致しました。
いつまでも幸せはここにあってほしいと思いますが、
そんな幸せも流れて変化していきます。
でも、幸せや苦しみが流れていくからこそ、救われることもある。
そんなお話でした。続きです。

ずっと今の幸せが続いてほしい

今の幸せがずっと続いてほしいというのは、誰しもが思うことです。
そうであれば、苦しみもないのですが、人生はそんなに甘くはありません。

この思いは幸せをつかんで離さない思いに通じていき、
苦しみを呼び寄せる考え方でもあります。

いつまでも健康でいられるという保証はありませんし、
いつまでも若いと思っていても、しだいに年を取り、
腰が痛くなったり、足が弱くなって、若いころの機敏な動きもできなくなってきます。

新しく建てた家も、建てたばかりはきれいで、それに満足して暮らしていても、
やがて家は古くなり、お台所もお風呂も汚れてきて、
建てたばかりの時の幸せ感は薄れてきます。車も服も靴も、みなそうです。

お寺の本堂には、いつも花を絶やしたことはありませんが、
新しくお供えさせていただいた花はきれいで、すがすがしい思いになります。
夏などは花のもちが短く、すぐしおれて枯れていきます。
そのときは、せっかく生(い)けたのに、もう枯れてしまったと、
少し不満の思いになります。
そうかといって造花では、心がこもっていないので、仏様が天から降りてきません。

こんなときは、花は枯れていくものだと思い
「ありがとう」の言葉を添えて捨てさせていただき、
「お願い致します」と念じながら新しい花をお供えします。
そんな心構えが必要なのだと気づかされるのです。

花でさえ、ずっと新鮮ではいられません。
幸せもずっと変わらないで、ここにいつまでもあることはできないのです。
では、どのように、幸せを受け止めていったらいいのでしょう。

流れる美しさからの学び

信州には天竜川が流れています。
その天竜川では舟下りがあって、一度乗ってみたことがありました。

川の中から見る景色は、丘から川を見る景色と違い、
変化にとんだ美しさがあります。
舟が川を下っていくと景色が移り変わっていきます。
そんな景色の移り変わりも、心を癒してくれます。

人生も川にたとえると、自分という舟が人生という川を下っていくのです。
その舟から両側の景色が見えます。その景色が次第に移り変わっていきます。
ある地点の景色が素晴らしいと思っていても、
自分という舟は休みなく川を下っていきます。

素晴らしいと思った景色でさえも、
いつまでも眺めていることはできません。
その景色を止めようと思って、
自分という舟を川に止めようとして川の流れに逆らっていると、
舟が転覆(てんぷく)してしまうかもしれません。
それが苦しみになるのです。

幸せもそうなのです。

人生という川のたとえからいえば、
幸せも両側に見える素晴らしい景色なのですが、
その幸せという景色を止めようとつかんでいると、
舟が転覆してしまうように、幸せが苦しみに変わってしまうのです。

ですから、今ある幸せの景色を大切にし、
そこから大切なものを学び取りながら、
次に現れる幸せの景色を流れの中で自然に受け止めていくのです。
受け止めては、そこに大切な学びをしていく。

そうすることで、変化していく幸せをいつも新鮮に受け止め、
さらには、そこから何かを学び取って生きていくことができるようになります。

少女が教えてくれたこと

少し抽象的になってしまったので、具体的なお話をします。
ある投書から、そのことを学んでみます。
この投書は68才の男性の方です。
「少女が教えてくれたこと」という題です。

「少女が教えてくれたこと」

先日、JR横浜駅で京浜東北線の上りホームに立って電車を待っていると、
中学生くらいの少女が、
70歳前後の少し右足が不自由なご婦人の手を引きながら階段を上ってきた。

「今どきよくできた孫だな」と感心して見ていたが、
階段を上り切るとご婦人がほっとした顔で
「どうもありがとう。本当に助かりました」とお礼を言ったので、
少女は孫でないとわかった。
少女は「気をつけて帰ってね」と言って、下りホームを去っていった。

途中ですが、投書を書かれた男性が、
ご婦人と中学生くらいの少女の様子(景色)を見ています。

ここで、少女がご婦人の孫ではなかったことに、少し驚きと感動を持ち、
その光景に幸せを感じたことを次に書いています。

日頃、苦労して階段を上っている年配者に
体をぶつけるようにして駆け上がる人を見かけることが多い。
苦々しく思っていたので、やさしく手を引く少女が輝いて見え、
心の中がぽかぽかと温かくなった。

再び途中ですが、少女が輝いて見え、
自分自身も心の中がぽかぽかと温かくなり、幸せを感じ取っています。
そして、こんな学びをしています。

高齢者になり、自分のことさえできれば、
それで十分と考え毎日を過ごしてきたが、少女に
「困っている人を見たら、ちょっと手を貸そうよ。
元気なうちはおじさんもそうだよ」
と教えられた気がした。

いずれ体が自由に動かなくなり、
他の方の助けをありがたく思う時が来る。

元気なうちにいずれ引き出すことになろう
「思いやり貯金」を少しでも増やしておこうと思った。

(朝日新聞 平成25年3月10日付)

少女から「困っている人を見たら、ちょっと手を貸そうよ」と教えられたと、
この投書を書いた男性は学んでいます。

さらに、元気なうちに「思いやり貯金」を
少しでも増やしておこうと思ったと言っています。

少女とご婦人のほんの一コマの景色から、
多くの学びをしていることがよく分かる投書です。
この男性も、とても素直に流れる景色を受け止め、
自分の幸せにしながら大切な学びをしている様子は、尊いものがあります。

苦しみも止めてはいけない

幸せもそうですが、苦しみも流れては消えていくものです。
景色が移り変わっていくように、苦しい事ごとも、
心にいつまでも止めておいてはいけないのです。

昔、悪口を言われたことや傷つけられたことなどさまざまに、
そのことを忘れないで恨みを抱いていると、
その思いが、きれいな心を汚していきます。

私自身、他寺院へお話に行くと、
そこのお寺に隣接している幼稚園の子供たちが、私を見つけると
「ああ、ハゲ坊主が来た!」といって大声を出すことがあります。
心の中では「このやろう!」などと思っているのですが、
顔では笑って通りすぎます。

このような悪口は軽いものなので、すぐ忘れてしまいますが、
「お母さんなんて大嫌い!」と言われた母が、
そのことを忘れられなくて、ずっと悩み続けていた
ということをどこかで聞いたことがあります。

でも、言った娘さんは母を傷つけようと思って言ったのでなく、
その場の状況で、出てしまった言葉であったかもしれません。

心にずっと止めていることで、苦しみがさらに増してしまいます。
俄(にわ)かに空に広がった黒雲が、大粒の雨を降らすように、
苦しみの雨に打たれてしまいます。

過ぎ去った嫌な事ごとは忘れてしまうことです。
そして、自分はそういう人間にはならないと、心を戒めることです。

こんな詩を見つけました。
69才の女性の方の詩です。

グラジオラス

別れようと思い
夫にあれこれ告げた
ゴミの日やカンの日
貴重品の保管場所
あとはサッサッと
出ればいいものを
植えたグラジオラスが
うしろ髪を引く
花を見てからでも
遅くはあるまい
それがまずかった
憎しみは長くは続かず
家出するのを
忘れてしまった

(産経新聞 令和元年7月13日付)

夫と何があったのかわかりませんが、
別れようと思うほど嫌なことがあったのでしょう。

でも、グラジオラスの花を見ていると、
憎しみは長くは続かずに、家出するのを忘れてしまったと書いています。

花は憎しみ消す力があるのでしょうか。
この女性の心根のやさしさからでしょうか。

流れの中なかで変わらないもの

すべては流れて変化していくとお話をしてきましたが、
変わらないものもあります。

夢を追い続けるとか、目的を失わずに努力するとか、
あるいは人としての正しい生き方を変わらず持ち続けるとか、さまざまでしょう。

俳優の津川雅彦さんが昨年の8月4日、78才で他界されました。
津川さんは以前、拉致問題を一日でも早く解決できるようにと、
ボランティアで拉致問題啓発のポスターに起用されたことがありました。

どうしてだろうと疑問を持ったのですが、
津川さんが女優の浅丘雪路さんと結婚されて、
真由子という子どもさんができたのです。
でも、生後5か月の時、その子が誘拐されたのです。
この時、無事に帰ることはできないかもしれないと覚悟したのですが、
41時間ぶりに救出されました。

この事件後「日本一の役者になる前に、世界一のパパになろう」と決心したのです。
娘さんと遊ぶ時間を作るために、夜の銀座やマージャン、
週末の競馬通いをきっぱりやめました。
木製のおしゃぶりを買いに出かけ、
プラスチック製しかないことにショックを受けて、
自然で安全なおもちゃだけを扱う店まで開いています。

子どもを大事にする心根は一生変わらなかったのです。
ですから、子どもを拉致された人の心の痛みを知り、
拉致問題啓発のポスターの起用を進んで受けたのです。

そんな変わらない精神も、尊く美しいものです。

美しき流れの中で、何を学ばん 4 自分自身も流れ、美しく変わっていく

今まで自分のまわりの人生の景色を見てきました。
また、この自分自身も美しく変わっていくことができます。
平凡な日々であっても、その中で大切な人の生き方を発見しながら、
自分をより美しく変えていくのです。

作家の山本周五郎に『風鈴』という小説があります。
感動が薄れますが、少しまとめてみましょう。

長女の弥生、二女の小松、三女の津留(つる)の三姉妹の物語で、
父母が亡くなり、弥生が母親に変わって妹の二人の面倒をみながら育てます。

弥生の家の扶持(ふち)は10石。
1石はお米10斗で、貧しい暮らしです。

弥生はその後、養子をもらい家を再興します。
妹たちは今でいえばお金持ちの家に嫁いでいきました。

弥生が29才のとき、妹たちが弥生の家に遊びにきます。
旅行に行こうと誘われますが、貧乏でそんな余裕はありません。
妹たちの豊かな生活を見て、自分は貧しい日々を送り、
夜な夜な裁縫をして暮らしを立てている。
こんな生活で、私の生き甲斐があるのだろうかと疑問を持ち始めます。

そんなある日、夫に250石の役目の話がきました。
その時夫は、役目を勧めに来た岡田という老人に、
「今の役目を辞めれば、代わりの人がいるのでしょうか。
今私が辞めたら、農民が困ってしまいます。
出世をし、豊かな暮らしがあれば生きる甲斐があるように思えやすいのですが、
それで満足できましょうか。
たいせつなのは身分の高下や貧富の差ではないと思います。
人間として生まれてきて、生きてきたことが、自分にとって無駄でなかった。
世の中のためにも少し役立ち、意義があった。
自覚して死ぬことができるかどうかが問題なのです」

それを聞いていた弥生は思ったのです。
生き甲斐とはなんだろうと長い間、頭を悩まし続けて来た。
富んでいることが生き甲斐ではなく、
家族やまわりの人のためにかけがえのない人として生きること。
そして病気をしたり死のときには、心から嘆かれ悲しまれる人。
それ以上の生き甲斐はない。
そう思い、迷いを絶つのでした。

(山本周五郎 『風鈴』)

山本周五郎の生き甲斐のとらえ方だと思います。

上手に小説の中に、その思いを表現しています。
豊かな暮らしが生き甲斐だろうか、そうではなくて、
自分がかけがえのない人として生きる。そのことが本当の生き甲斐だと、
弥生に語らせています。教えられる生き方だと思います。

私たちも、「あなたはかけがえのない人」と言われる生き方をしていくと、
そこに美しい人生が流れていきます。