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法話

美しき流れの中で、何を学ばん 1 さまざまな流れの美しさ

今月は「美しき流れの中で、何を学ばん」という演題でお話をしていきます。
このお話は平成25年9月19日に「法泉会」という会での117回目のお話です。
少しまとめながら、お話ししていきます。

流れる月の美しさ

夕暮れの少し赤く染まった大空を、
十数羽の鳥たちが流れるように飛んでいく姿を見て、
「なんて美しい光景なんだろう」と、思ったことがあります。

日本は四季の巡りがはっきりしていて、
とても美しく季節が流れていきます。
その中でもお月様の変化は、なんとも言えない情緒があります。
お月様がもし満月だけであったなら、どうでしょう。
「今日も、まんまるか」というぐらいの感動しかないかもしれません。
でも、お月様の姿は流れるように変化していきます。

お月様が隠れてしまう新月、次第にその姿を見せて三日月(みかづき)に、
半分になった上弦の月、少し丸くなりかけての十三夜、そして十五夜の満月、
十六夜(いざよい)から、少し欠けてきて居待月(いまちづき)、
半分になって下弦の月、明け方に東の空に見える有明月(ありあけづき)。
そして、新月に戻ります。

およそ30日くらいかけて満ち、そして欠けていきます。
この満ち欠けに、お月様に添えた名も、とても美しい響きがします。

春は花、秋は月

人は自然の移り変わりの美しさを、何かに残そうとしました。
それが歌であったり、絵であったり、写真であったり、音楽であったりします。

曹洞宗を開いた道元禅師が作った有名な歌があります。

春は花夏ほととぎす秋は月
            冬雪さえて涼しかりけり

春にはたくさんの花が野に咲きだします。
ほととぎすの声を聞くと夏が来たと思います。
秋は紅葉であったり、空気が澄んでいるので、月がとてもきれいに見えます。
冬は何といっても雪です。
その自然の美しさを道元はこのように歌にしました。

もし、春に紅葉があったり、夏に雪が降ったり、
秋に桜が咲いて、冬に37度の暑さがくれば、
自然の流れの美しさがどこかへ行ってしまいます。

そうではなくて春は花がいい、秋は月がいいと自然の流れを素直に受けとめていく。
これを学びとして受け止めていくと、幸せのときには感謝を忘れず、
苦しみのときは静かに耐え、疲れたときには休み、日々笑顔で暮らす。
これが人としての自然の美しい流れではないかと思います。

自然を表した禅語から学び取る

禅語の中には、自然を歌った言葉がたくさんでてきます。
その言葉の中に、人としての生き方を重ね合わせています。
「美しい自然の流れの中で、何を学ばん」という今回の演題で、
禅語から、このことを学んでみましょう。

春は千林(せんりん)に入(い)る 処処の花
秋は万水(ばんすい)に沈む 家家(かか)の月

春になるとあたたかな風が林のなかをすりぬけ、
そのあたたかさゆえに至るところで花が咲きだします。
秋には清らかな水があって、どの家にもある清らかな澄んだ水に、
月が映って見えます。そんな意味の禅語です。

この花と月は仏の心を表しています。
春は千林の中に花が、秋は万水の中に月が、という言い表し方で、
至るところに仏の思いが満ちていて、
仏の慈悲に抱かれている私たちであることを、
この禅語のなかで歌っているのです。

今吸っている空気を、仏の慈悲の思いであると感じることは難しいかもしれません。
赤とんぼの空を、仏のほほえみと見ることはできないかもしれません。
でも、そうなのです。それが美しい流れの中で学び取る尊い生き方です。

抱(いだ)かれて、今がある

そんないつも抱かれていることを詩にしたことがあります。
「慈悲の手」という詩(平成25年10月号の「法愛」に掲載)を作ったことがあります。

「慈悲の手」

あるとき
私の心のドアをたたいて
幸せがやってきた

幸せは
そうしてやってくるとばかり
思っていた

でも
そうでないことがわかった


いつも私は 幸せに包まれているんだ
そう知った

大きなやわらかで
慈愛に満ちた両手に
私はいつも包まれている

この大きなやわらかで慈愛に満ちた両手は、家族かもしれない、
大自然かもしれない、また仏や神かもしれない。
でも、いつも誰かに抱かれ守られ、生かされている。
そんな境地を詩にしたのです。

川の流れに学ぶ

川の流れというと、
青森県の十和田湖から流れる奥入瀬(おいらせ)渓流は
涼やかで心に安らぎを覚えます。
2回ほど行ったことがありますが、水の流れがきらきらと輝いて美しい流れです。

護国寺でも夏の間だけですが、清水が湧き出てきます。
昔、古い本堂であったころは、裏庭が池になっていて、
そこにきれいな湧き水があふれていました。

新しい本堂になったとき、その池を埋めて、
その上に本堂を建てたので、池はなくなってしまいました。
でも、本堂と書院の間に、新しく庭を作って、
その庭に湧き出て来る水を流す川を作ったのです。
今では夏の間の一カ月半ほどしか清水は湧いてきませんが、
でもその川に流れる水の音に、みな心を癒されています。

川の流れというと、有名な歌を思い出します。
秋元康さんが作詞し、美空ひばりさんが歌った「川の流れのように」という歌です。
少しその歌詞を載せてみましょう。

知らずしらず歩いてきた 細い長いこの道
振り返れば遥か遠く 故郷(ふるさと)が見える
でこぼこ道や曲がりくねった道
地図さえない それも人生
ああ 川の流れのようにゆるやかに 
いくつも時代は過ぎて
ああ 川の流れのように・・・

こんな歌詞です。

小さな川が次第に大きくなって大河となり海に注いでいきます。
人もそんな川の流れのように人生を流れていって、
さまざまな体験をし、心を養って、人として大きく成長していくわけです。

ここに「地図さえない、それも人生」と歌っていますが、
水の流れの法則から考えると、
その法則が生き方の地図を表しているとも考えることができます。
水の法則にあるのが、「水は高きから、低きへ流れる」という法則です。

この法則を人の生き方に当てはめてみると、
「善いことをすれば善い結果が現れ、悪いことをすれば悪い結果が現れる」
ということです。

流れゆく世にあって

この流れゆく人生について、
以前私が書いた『幸福の地図を開く』という本の中に、こう書いています。

流れゆく世にあって、
幸福を培うことのできるひとつの方法は、
やさしさの中にあるのです。

やさしさを大切に思い生きていくと、
幸せになれる確率が非常に高くなっていくということです。
これも人生を幸せに生きていくための地図といえます。
そこには美しい人生の流れが、きっとあるはずです。

こんな詩をみつけました。
5才の男の子の詩です。

「やくそく」

ばあばが
しんじゃった
なんでやろ
かーくんももっともっと
ばあばと
あそびたかったのに
じいじ
しんだらあかんで
かーくんが
おおきくなるまで
ぜったいに
しんだらあかんで
やくそくやで

(産経新聞 平成31年4月28日付)

ばあばが死んでしまって悲しくてたまらないか―くん。
今生きているじいじに死んだらあかん、
もう悲しい別れはいやだと言っているのです。
じいじはこの詩を読んで、きっと涙ぐんでいることでしょう。

かーくんのやさしい気持ちがあふれている美しい詩です。
こんなやさしさが幸せを作っていくのです。

やがてみな死を受け取らなくてはなりません。
その人生の流れの中で美しい輝きを幾つも体験していくことが、
充実した人生を得る方法でもあります。

人の営(いとな)みの流れ

流れには水の流ればかりでなく、人と人との営みの流れもあります。

人は一人では生きていけないものです。
でも、一人でいるときには、あまり心は波立ちもしないで、
平穏に生きていけそうです。
それが2人になり、3人、4人になりと人数が増えて、
複雑な人生の流れになってくると、不満が出たり不平がでたり、
怒りや嫉妬、あるいは疑いや悪口などがでてきます。

逆に、多くの人との触れ合いで人生が流れていくと、
助け合いや支え合う事ごとがでてきたり、
頑張って生きている人の生き方を学んだり、
感謝や尊敬の思いを学んだりすることができるようになります。

一人の時には、平穏に過ごせた日常も
2人になると、テレビを見て、見たい番組が違えば、
どちらかが我慢しなくてはならなくなります。
洗面所でも、自分の都合のよい時間に使うことができなくなり、
相手が先に洗面していれば、待たなくてはならなくなります。
それが3人、4人、5人と増えていけばさらに大変な日常生活になってきます。
でも、そこで譲り合う学びもできてきましょう。

人と人の触れ合いの美しさ

人生には母と子の流れ、父と子の流れ、
夫婦の流れや、嫁と姑との流れといった、さまざまな流れがあります。
その中で人はたくさんのことを学び、みな努力して幸せになろうとしています。

母と子の触れ合いから学んでいる投書がありました。
51才の男性の方のものです。
「お母ちゃん、今までありがとう」という題です。

「お母ちゃん、今までありがとう」

先日、母が89歳で亡くなった。
入居していた特別養護老人ホームで
朝に嘔吐して意識不明の状態で見つかり、病院に運ばれた。
私が駆けつけた時、すでに息絶えていた。

父は私が18歳の時に亡くなり、
母は80歳まで八百屋を営んでいた。
月2回の定休日以外は働きづめの日々だった。
引退後は、できるだけ楽しんでもらおうと、よく旅行に連れていった。
86歳で大腿骨を骨折し、それ以後は施設での生活が続いていた。

葬儀では私は喪主なので平静を装った。
帰宅し老人ホームの母の部屋に残されていたまんじゅうを食べた。
その時、母に今までしてもらったことが頭に浮かび、
感謝の気持ちでいっぱいになった。

母の遺影の写真は、にじんで見え、
まんじゅうの味はしょっぱかった。
そして私は、母に語りかけた。

「お母ちゃん、今までありがとう」

(朝日新聞 平成25年9月6日付)

母と子が人生の流れの中でさまざまな出来事を体験し、
母が自分にしてくれた今までの苦労を思い返すと、
涙が止まらなくなったというのです。
そして感謝の「ありがとう」を遺影に手向けています。美しい人生の流れです。

人生は止まることなく流れていきます。
その流れを美しくしていくのは、この投書から教えてもらう、
強く生きぬく生き方と、相手を大切に思う感謝の心です。

(つづく)