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法話

生と死の扉を開く 5 死の扉の前

先月は、生まれる前の免許証についてと、
古池であるこの世でしっかり生きて、自分の花を咲かせる。
そんなお話を致しました。続きです。

しっかり生きる

この世で、みな努力して自分の美しい花を咲かせ、
そして寿命がくれば、死を受け取らなくてはなりません。
死の練習には20年かかるという、そんな話もあります。
死の練習と言っても、自殺を進めているのではありません。
そうではなくて、一生けん命生き抜くということです。

生と死は紙の面(おもて)と裏のようなもので、非常に密接な関係にあります。
裏のない紙などありませんし、同じように死のない生などありません。

それはどういうことかというと、
一生けん命に生きた人は死も充実したものになるということです。
「ああ、しっかり生きてきた。だから、思い残すことはない」
そう思えるわけです。

生きることになおざりで努力もしない生き方であった人は、
「私は今まで何をして生きてきたのか。
この命を無駄に使ってしまったのではないか。死が怖い」
そんな不安な死を受け取らなくてはならないということです。

試練を超えて

人生は甘くなく、試練もたくさんでてきます。
そんな中でも、一生けん命に最期まで生き抜いていく。
そんな姿が美しいのです。

今(6月から7月)咲いている沙羅双樹の花も、
その花の命は短いけれども、暑さや強い雨や風の試練に耐え咲いています。
そして、散るという試練を素直に受けいれ、散っていきます。

中学生である男性の「試練がなければ完成しない」という題での投書がありました。
試練を乗り越えて完成していく、中学生であっても、
しっかりした生き方を持っています。

「試練がなければ完成しない」

授業で「論語」を習い、
「人は試練がなければ、完成しない」という言葉に共感しました。
自分の経験を思い出したからです。

僕は中学校から剣道を始めました。
最初は、試合をしても、なかなか勝つことができませんでした。
悔しくて、毎日毎日、練習をしました。
夜も家の近くの道場で練習して、努力を積み重ねてきました。

そして、2年生になると、
ようやく自分でも納得のできるような結果を出せるようになりました。
1年生のときからの努力が実を結んだと感じました。
この体験から、僕は努力の大切さを学んだような気がします。

論語が教えているように、
人は試練を乗り越えることで、成長することができます。
懸命に努力を積み重ねることによって、結果をだせるようになるのだと思います。

だから、どんな困難があっても、努力を惜しまない人になりたいです。

(産経新聞 平成25年1月21日付)

「論語」の「人は試練がなければ、完成しない」
という言葉に、共感したといいます。
中学生でも、こんな優れたとらえ方ができるのですね。

人生には試練がつきものです。
でも、その試練を乗り越え、しっかり生き抜いていくところに、
美しい生き方があります。

先月に柴田トヨさんの『くじけないで』という詩を載せました。
そこには、「つらいことがあったけれど、生きていてよかった」と、
書いていました。

しっかり生き切って、充実した生(せい)を得ることができます。
そんな生(せい)のとらえ方が、安らかな死を受け取ることにつながっていくのです。

死んだら終わりではないと、素直に受け取る

死の扉の前で必要な心構えは、死んだら終わりではなく、
扉の向こうの世界が必ずあると確信していることです。

そして、素直に自分の死を受け入れていく、
そんな生きる姿勢を心に染みわたらせていくことです。

死の扉を開け、次の世界に素直に入っていく心の準備をしておくことです。

自分が死を受け取るときに、
死んだら終わりではないという考え方を
何年もの間、自分に納得させていないと、
死を受け取るときは大変かもしれません。

最近は大概の人がガンになれば告知されます。
告知しない場合もありますが、その場合、
ガンの病気の人だけがガンとは知らず、家族や周りの人はみな知っていて、
お見舞いに行くときに、ためらいを感じるものです。

また、本人にガンを伝えようとしても、
聞きたくないと耳をふさいでしまう人も中にはおられます。
「もう幾ばくもない命だから、家族の人にお別れをし、
後の事をちゃんとお願いしておいたほうがよい」
と言っても聞かない人もいます。

それほど、死を受け入れるというのは大変なことかもしれません。

金子哲雄さんの場合

流通ジャーナリストであった
金子哲雄さんという方がいらっしゃいました。
41才で急逝されました。平成24年10月2日のことです。

亡くなる1年少し前に、肺カルチノイドという病気になり、
医師から「治療のほどこしようがない」と言われるほど、
深刻な病気になっていました。

そこで、死の準備を始めるのです。
それを本にして、彼の死後、
『僕の死に方エンディングダイヤリー500日」(小学館)
という題で出版されました。

自分のお寺もお墓も決め、葬儀の段取りもし、
告別式の会葬のお礼の言葉も残しました。

この本の中に、お迎えのことが書かれています。

今日までにもう3回、これがお迎えではないかと思われるものが来ている。

ある時は亡くなった知人が現れ、
ある時は制服のようなものを着た人物が現れた。

妻によると、私が薄ぼんやりした中で、お迎えとあっている時、
彼女も部屋の片隅に気配を感じたという。

天の世界でも、こんな詩を学び、
「下界で大変なことがあっても、くじけないで、幸せになるんですよ」
と、みんなが送り出してくれるのです。

これは肉体が弱ってくると、魂が強くなり、
魂の目で次元(じげん)の違った世界が見られるようになったということです。
肉体から魂が抜け出る練習をしているとも考えられます。

また金子さんの奥様が書いた「あとがき」の中に、
次ぎのようなことが書かれています。

最後の呼吸が止まった瞬間に、金子の体が物体になったのがわかりました。
金子の体はここにあるのだけれど、
でも、金子がここにいないことは、よく分かりました。

これは金子さんの肉体から魂が抜け出たということです。
死の扉を開いて、あちらの世界に行こうとしているのです。

延命について考えておく

死の扉を開く前に、今まで生きてきて、どんなことを学んだかを振り返り、
またどれだけ自分が今まで生かされてきたかを思い返し、感謝の念を深くします。
生きているうちに、お世話になった方々に「ありがとう」の言葉を投げかけます。

さらには、延命についても考えておくことが大事です。

金子さんの本の中に、
「僕が死んでも、救急車を呼んではいけないよ」
と口酸(くちす)っぱく言われたと、奥様が書かれています。

救急車を呼ぶと不審扱いにされたり、
延命治療を施される可能性があるということです。

本人は望んでいないのに、延命治療をされ、点滴を打たれ、
それが苦痛でたまらなくなり、点滴の管(くだ)を取ると、
嫌であっても拘束されて点滴を続けられます。そんな延命を受ける場合もあります。

私がある葬儀のお手伝いに行った折に、喪主の挨拶の中で
「父は92才まで生き、家で倒れたので、救急車を呼ぼうと思ったけれど、
生前、延命はやめてくれという言葉を思い出し、
断腸の思いで、救急車を呼ばなかった。
そして2~3日して、父は静かに穏やかに亡くなった」
という意味の挨拶をされました。

喪主としては、これで良かったのか、いけなかったのか
迷いもあるとも語っていましたが、その挨拶を聞いていた私は、
「救急車を呼ばなくてよかった。よかった」
と、心の中でお伝えしていました。

延命をせず、父の望み通り、静かに息を引き取ることができたことは、
死の扉を開いて後、自然にあちらの世界へ移行していけると思ったのです。

生と死の扉を開く 6 死の扉を開いて

目がくらむ

死の扉を開き、あちらの世界へ移行していくとき、
たとえば急に明るいところに出ると目がくらみ、しばらく周りが見えない、
そんな体験をされた方も多いと思います。

逆に急に暗い所に入ってまったく見えない。
でも、しばらくすると目が暗さになれて、ぼんやりあたりが見える。
そんな体験もあります。

あの世への扉を開いて、あちらの世界へ移行するときに、
あちらの世界に馴染むために、しばらく時間がかかるのです。

『死の瞬間』という本を書いた医学博士のキューブラー・ロスが、
あるとき子供に「死んだらどうなるの」と聞かれて、
「さなぎが蝶になって、お空に飛んでいくのよ」と答えていました。

さなぎが肉体で、蝶が魂(心)、
あるいは霊的エネルギーと言ってもいいかもしれません。

さなぎが蝶になる時には少し時間がかかります。
私は蝉が脱皮するところを見たことがありますが、
結構時間がかかり、無防備なのがわかります。
ずいぶん時間をかけ、蝉になっていく。

死を受け取るときも、
あちらの世界に馴染むのに、時間がかかるのです。
それを49日忌で表しているとも推測できます。

こんな詩を書いた方がいます。50才の男性の方の詩です。

夏の朝に

揚羽蝶(あげはちょう)の羽化を
飛び立つまで
じっと見守った
くしゃくしゃの羽が
ゆっくり展(ひろ)がってゆく
展がりきるまえに
少しでも傷つけば
蝶はそのまま蟻達の
エサになる
トンボもセミも みんな同じ
黒揚羽(くろあげは)は
夏の空に消えていった

(産経新聞 平成30年7月3日付 ※ふり仮名は筆者)

死の扉を開き、あちらの世界へ足を踏み出すと、
あちらの世界に馴染むのに時間がかかるのです。

この世で生きた心の世界が現れる

そして次に、この世で生きてきた心の思いが、
あちらの世で現れるのです。

どういうことかと言うと、善に生きた人は善の光の世界が見え、
悪に生きた人は悪の暗闇が見えてくるということです。

たとえば、この世で足ることを知る生き方をしっかり行っている人は、
1000円あれば、まだ1000円あると満足します。
反対に欲深な人は、1000円あっても、満足せず、
これしかないと心をいら立たせ不安になります。

足ることを知った人が道で1万円拾うと、すぐ交番に届けます。
欲深な人は、「しめしめ」と思い、自分のポケットに入れてしまいます。

思いやり深い心を持っている人は、相手を大切にしようと思います。
自分勝手な人は、相手を邪魔扱いにしたり、
相手の思いを考える余地もありません。

心の中に何を思っているかで、周りの景色が違ってきます。
あちらの世界では、身体がすでにないので、
心で思っている世界が現れてくるのです。

自分の幸せと、相手の幸せのために

先月号で「生まれてくる前の免許証」についてお話を致しました。
死の扉を開き、あちらの世界で少し馴染んでくると、
免許証をいただいた時の研修内容通りの生き方ができたかの点検をします。

仏教的にいえば、閻魔様の前で、
生前の生き方を調べられるとでもいいましょうか。
自分の一生が浄玻璃(じょうはり)の鏡に映し出され、
嘘をついても、すぐわかってしまい、言い訳はできないのです。

生まれてくる前の研修内容を書きだしてみます。
相手の喜びのために善を積んだか。
感謝の思いを忘れないで、前向きに生きたか。
くじけないで多くを学んだか。幸せになったか。

どうでしょう。
もし、困難があって、それを乗り越える体験をしていたら、
あちらで待っていた人たちが、「よく頑張ったね。偉いよ」と、
}そう言って笑顔で拍手をしてくれます。

自らが体験した悲しみに負けず、くじけないで乗り越えたなら、
それを知ったあの世の人たちが、「大変な思いをしたのね。立派だったよ」
と慰めてくれます。

生かされている日々に感謝しながら、自らの幸せはもちろんのこと、
相手の幸せのために、汗を流して頑張って生きている、
そんな姿を見たとき、あの世の人たちは、
喜びの涙を流して抱きしめてくれるでしょう。

自分の幸せと、相手の幸せを願い、
今、どう生きるかが、とても大切なことを知っていましょう。