.

ホーム > 法愛 3月号 > 法話

法話

生と死の扉を開く 1 さまざまな生と死

今月から「生と死の扉を開く」というテーマでお話を致します。

このお話は、平成25年2月18日、
伊那市にあるウエスト・ヴィレッジという喫茶店でお話ししたものです。

その喫茶店で各月おきに「喫茶店法話の会」を開いています。
このお話は、16年目の法話の会のときのものです。

生と死の考え方

仏教では生死と書いて「しょうじ」と読み、
迷いを表す言葉としてよく使われています。

今回は「生と死」ということで、
人が生まれて死を受け取るまでのことごとを考えてみたいと思います。

今、生と死はこの世に生まれてから死ぬまでということを言いましたが、
考え方を変えれば、生と死は数限りなくあるのです。

たとえば呼吸を考えてみます。
息を吸うとよく言います。
この息は「口や鼻から呼吸する空気」を言うのですが、
そのとき息を吸うことを、人の体内に息が生まれたと考えてみるのです。
そして息を吐く時、体内から息が出ていき、それを息の死と考えます。

一般的には1分間に、
15回から20回ほど息を吸ったり吐いたりすると言われていますので、
平均値をとって18回と考え、80年の人生で合計すると、
約200万回の呼吸をすることになります。
このことを生と死の考え方でいえば、
80年の人生で息は200万回の生と死を繰り返していることになります。

あるいは、今みなさんが
ウエスト・ヴィレッジという喫茶店にきて、お話を聞いています。
これを生と死の関係で考えてみると、
この喫茶店に来てお話を聞こうとするとき、
この喫茶店に生まれたと考えるわけです。
1時間半のお話が済むと、この喫茶店を出ていきます。
そのとき、喫茶店での出来事に死を迎えることになるのです。
そして、家に帰ると、我が家に生まれることになります。

今皆さんはこの法愛を読んでいます。
法愛を手に取って読み始めるとき、この法愛に生まれ、
読み終えたとき、法愛との別れがあって、死を迎えるのです。

一日一生の考え方

少し時間を伸ばして考えてみると、一日一生という有名な言葉があります。

一日が始まるのをもって今日生まれたと考え、
今日一日が終わるのを、死を受け取ると考えるわけです。
今日一日が大切な一生といえます。
そう考えると、与えられた時間を無駄にはできないという尊い考えが出てくるのです。

この『一日一生』という題で、何人かの人が本を出しています。
その中に内村鑑三という人がいます。
内村鑑三は、キリスト教の思想家で無教会主義を唱えた人ですが、
この本の中に、今回の生と死に関するところを探してみると、
5月2日に、次のような文章を載せています。

死は大事である。しかし最大ではない。
死は取り返しのつかない災厄(わざわい)ではない。

死は肉体の死である。霊魂の死ではない。
形体の消失である。生命の湮滅(いんめつ)ではない。

われわれは死して永久に別れるのではない。
われわれは後にまた再び会うのである。

人生の最大は死ではない、罪である(後省略)。

死は大切であるけれども、最大のものではなく、
罪や悪を犯すことのほうが人としての過ちであって、
このほうが魂を汚すので、最大の関心事として、
罪や悪を犯さないようにしなくてはならない、と言っています。

なぜなら、死は肉体の死であって、霊魂は死なず、
ずっと生き続けていくからだと述べています。

このような考えを、5月2日の朝に読み、
今日一日、罪や悪を犯さないように、できればひとつでも善を積み、
心を磨いていけるようにと念じて、一日一生の思いで生きていくわけです。

さまざまな生と死のなかから

小学校に1年生として入学し、6年間さまざまな学びをして卒業をします。
それも小学校1年生で学校に生まれ、6年経って卒業することで、
その学校に別れを告げます。

ここでいえば、小学生での死を迎えるわけです。
そして、中学生として生まれます。

あるいは、子どもとして生まれ、20才で大人になり、
子どもとしての死を迎えると、大人として生まれます。

人生を80年として考え、それを日数で数えると、
約2万9千200日になります。
この日数を生きて、やがて死を迎えます。

その間に、どれだけの生と死をいただいてきたことでしょう。
数えきれないほどの生と死を繰り返し、私たちは生きているのです。

これは私ひとりのことでなく、動物や花や木々、そして家族や友、
共に働く人たちや縁あって集った人たちの生と死を、互いに見つめながら、
私たちは自分の生と死を見つめて生きているわけです。

金子みすゞが、こんな詩を作っています。

うちのだりあの咲いた日に
酒屋のクロが死にました。

おもてであそぶわたしらを、
いつでも、おこるおばさんが、
おろおろ泣いて居りました。

その日、学校でそのことを
おもしろそうに、話してて、

ふっとさみしくなりました。

こんな詩です。

犬の死を見て、泣いているおばさん。
いつも子どもたちを怒っている、そのおばさんが泣いている。

学校で、いつも怒っているのに、
泣いてなんかいて、いい気味だとおもしろがる。
そんな自分に、人の悲しみをおもしろがる
人としての拙(つたな)さに、さみしさを抱いたのです。

犬の死から、悲しみと愚かさを学んでいます。
自らの生と死と、さまざまな相手との生と死を見つめ、
人として多くのことを学んでいる私たちなのです。

生と死の扉を開く 2 生の扉を開く前

この世に生まれてくる前に

この世に生まれてくる、生の扉を開く前、
私たちはどうしていたのでしょう。
また、どんな思いで、この世に生まれてきたのでしょう。

この答えを大きく二つに分けると、
1、偶然にこの世に生まれてきた。
2、必然的に、自分で考えて生まれてきた。

この二つになります。

このお話は喫茶店法話の会で話したものですが、それに当てはめて考えると、
この法話会に来られた人は偶然にこの会場に来られたのか、
それとも自分でここに来ようと考えて来られたのか、どちらでしょう。
答えは、自分で参加しようと思って来たわけです。

時々、灯(あかり)がついているので喫茶店があいていると思って来た人は、
「今日は、喫茶店はお休みで法話の会です」と告げると、みな帰っていきます。

これを生と死で考えると、
この喫茶店に自分で考え生まれてきたということになります。

お店に行くのも、そこで売っている品物も、みな自分で考え選んで買います。
今日の夕食も自分で考え、見るテレビも、自分で選びます。
寝る時も起きる時も偶然にしているのでなく、
自分の判断で起きたり休むものです。

みな自分が考え選んで、生活していることがわかります。

この世に生まれてくるときは、どうでしょう。
みな自分で考え選んで生活している私たちですから、
生まれてくるのも、自分で考え選んで生まれてきたと考えるのが
自然な気がいたします。

お釈迦様の生まれのこと

お釈迦様はこの世に偶然に生まれてきたとは語っていません。
自分で考えこの世に生まれてきたと仏典に記されています。
次に挙げた5つの考えのもと、この世に生まれてきたと説いています。

1、その時代の人びとの心の在り方はどうであろうか。
2、その時代は、今、悟れる仏陀を必要としているのか。
3、どの国に生まれたらよいのか。
4、どのような人種に生まれればよいのか。
5、どんな人を父とし、母とすればよいのか。

この5つをよく考え、2600年ほど前にインドの地に生まれ、
教えを説いたことになっています。

本当のことか、後に作られたお話か、定かではありませんが、
私は信じて疑いません。

インドの地に仏陀が現実に現れ、その慈悲の力が多くの人を救い、
今も、この『法愛』という形で、その教えが灯っています。

ぼくお母さんを選んで生まれてきた

最近、子どもは選んで生まれてくるという本がたくさん出るようになりました。
その中で、医学博士の池川明さんが書いたものがたくさん出ています。

池川さんは、産婦人科で仕事をしていると、
子どもたちが生まれてくる前のことを話すので、
最初は信じなかったようですが、
あまりの数の子どもたちが、生まれる前のことを話すので、
長野県の諏訪市と塩尻市で、保育園に通う親子3601組を対象に
アンケート調査をしたのです。

世界でも例のない規模の調査だったようです。
それが、本にまとめられ、その中の一冊で、
『なぜ、あなたは生まれてきたの』(青春出版社)から、少し引用してみます。
小さなお子さんの語った言葉です。

「ぼくね、雲の上にいてね、
ああ、あそこの家がとってもいいな、行きたいなって思っていたんだよ。
だからぼく、ここに来たんだよ。来てよかった!」

こんな子もいます。

「ママとパパを選んだよ。ずっと待っていたんだよ」

「お母さんはけっこう前から選んでいたけれど、
忙しそうだったので、ずっと待っていました。
すごく待たされた」

この子は雲の上からお母さんになる人の生活を見ていて、
仕事が忙しそうで、赤ちゃんのことをあまり考えていなかったので、
やがて生まれてきたとき、このように語ったというのです。

神さまからのお許し

いいやく りお、という名の男の子がいます。
平成13年生まれですから、今16才くらいです。

この子は生まれたときから病弱で入退院を繰り返していたのですが、
とても不思議なことを語り初め、お母さんがその言葉を書き留め、
詩的にまとめた本が出ました。

りお君が3年生も終わりの頃、出版が決まったようです。
『自分をえらんでうまれてきたよ』(サンマーク出版)という題の本です。

その中で
「ぼくの言うことは、ぜったい正しいわけじゃないけれど、
不思議なことだけれど信じてね」
と書き、さまざまな生まれる前のことを詩にしています。

池川さんもりお君について、前述した本の中で書いています。

「赤ちゃんは、どのお母さんにするか、どんな体にするか、
自分で決めて生まれてくるのが、ふつうだよ」

「ぼくは、病気だったから、幸せなんだ。
ぼくは、病気だったから、心の言葉が話せるんだ。
だから、いつか、心の幸せを配るサンタさんになりたい」

こんな不思議なことも書いてありました。

生まれる前、神さまは、
「いっぱい大きくなりなさい」
って、メダルをくれた。

「りおくん、がんばれ、りおくんがんばれ」
って書いてあって、さわったら冷たかった。
金色で丸い、メダル。

神様が生まれる前の世界で、
「あなたは病気で大変な思いをするけれど、
心の言葉をみんなに伝えてあげて、病気で生まれてくる子どもたちや、
そんな子ども授かって、大変な思いをしている
お母さんやお父さんたちを励ましてあげなさい」
そう言って「がんばれ、りおくん、がんばれ」と、
生まれる前の世界から、りお君にメダルを手渡しエールを送り、
この世への扉を開いて送り出してくれたのです。

そういえば、ダウン症で生まれた、書家である金澤翔子さんのお母さんが、
娘の翔子さんのことを
「書の神様が降りてきたとよく言われるけれど、
本当に『降りてきた』書が翔子には5つか6つはある。
説明不可能な素晴らしい字」
と語っています。

生まれることや、大切な仕事の中に、神様のお力がきっとあると思われます。

(つづく)