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法話

人生の隠し味 1 人としての味わい

今月は「人生の隠し味」というお話を致します。
このお話は5年ほど前の平成24年3月2日の夜、
護国寺の女性部の理事会で、会合の始まる前にお話ししたものです。
23分くらいのお話でしたので、1回にまとめてみます。

料理の隠し味

料理に隠し味があるというのは、誰もが知っていることです。

その隠し味に使う調味料が塩であったり砂糖であったり、
酢やミリンであったりします。

生前、私の母が「この料理は塩があまい」と言っていたことがあって、
それを何度も耳にしていた孫が、確か小学生の頃だったと思います。
コーヒー牛乳を甘くしようと思い
「ここに塩を入れて」と言ったことがありました。

塩を入れれば塩辛くなってしまいます。
でも、孫にとって祖母の言った
「この料理は塩があまい」という言葉から、
塩は甘いものだと思ったのも無理はありません。

コーヒー牛乳を甘くする隠し味は砂糖です。
間違って塩を入れれば、そのコーヒー牛乳は美味しくは飲めないと思います。

私も以前コーヒーを自分で入れて飲んだことがあります。
めったに開けない台所の棚から、「これが砂糖かな」と思い、
ふた匙(さじ)入れて、飲みました。
飲んだとたん、飲めるコーヒーではなかったのです。
どうも塩を入れたようで、棚の中にあったその器には、
砂糖によく似た塩が入っていたのです。

間違った隠し味

考えてみれば料理でさえ、一生懸命に作っても、
隠し味である調味料を間違って使えば、美味しくはないでしょう。

人も同じで、人の心の内にある人としての隠し味を
間違えて心に入れてしまうと、人としてのよい味わいがなくなり、
相手を傷つけてしまったり、自分自身も幸せにはなれないと思います。

最近目立って多い事件が道路上のいざこざです。
その関連のニュースを調べてみると、かなりたくさんあることに驚かされます。

今年の6月ごろ、神奈川県大井町の東名高速で、
ワゴン車が大型トラックに追突され、ワゴン車に乗っていた夫婦が亡くなり、
高1と小6の娘さんがケガをした事故がありました。

そこに至る原因が問題なのです。
高速のすぐ手前にあったパーキングエリアで、止まっていたそのワゴン車の前に、
進路をふさぐように車を駐車した25才の男性がいました。
そこでワゴン車に乗っていた男性が注意をしたところ、
注意を受けた男がどう思ったのか、そのパーキングを出て、
高速道路上でワゴン車を追い越し、ワゴン車の前に割り込んで、
なんと追い越し車線でワゴン車を止め、文句を言ってきたというのです。
そこに大型トラックが衝突し、大惨事になりました。

このワゴン車を止めた男性の心に、どんな思いが入り込んでしまったのでしょう。
それは怒り不満かもしれません。そんな思いを心に入れてしまい、相手を傷つけ、
自分自身も大変な思いをしなければならなくなったのです。

このお話での人生の隠し味は、いい意味で使っていますが、
もし間違った怒りや不満という目には見えない隠し味を心に入れてしまうと、
決して幸せにはなれないのです。

お化粧という隠し味

ひとつの投書から、人生の隠し味について学んでみたいと思います。
北海道石狩市に住でおられる女性(58才)で、
「5分で水の泡」という題の文章です。

「5分で水の泡」

3年前の正月、札幌市で開かれた高校の新年クラス会に、
数十年ぶりに出席した。

女性の友達に会うので、前の日は大変だった。
入念にマッサージをしてパック、いつもよりたっぷり化粧水をつけて、
この日のために買ってきた高いクリームを塗って、いつもより早めに寝た。

寝る時も「目元パック」なるものがあって、
朝まで顔につけたままで寝たけれど、なるべく動かないようにしなければ、
余計なパックの線が数本くっきり残ってしまう。

その線がシワに見えて、つける前より老けてしまうから、
朝までつけておくには、なかなか勇気がいる。

そんな努力の後、朝起きて鏡の前の自分からシワが目立たなくなり、
肌が潤っているのを見て「よし、10歳は若く見えるぞ」と満足。
買っておいた、少し若めのワンピースを着て髪をセットし、
会場のホテルに向かった。

30年以上会っていない友もいる。
期待に心躍らせ、あまり笑わないように顔を動かさず、
いざ会場へ。

ところが、会った途端に懐かしく顔いっぱいに笑って涙まで出し、
顔じゅうしわくちゃでグシャグシャ。
ああ、昨夜の努力は何だったか。たった5分で水の泡。

でもいいか、皆の顔も同じよう入念な化粧がグシャグシャで、
シワだらけだった。

でも、みんなの笑顔は輝いていた。

(毎日新聞 平成24年1月25日付)

みんなに会うために前の晩、念入りにマッサージやパックをしたりして、
身だしなみに気を使っています。

ある川柳に「ボサボサの頭でゴミを出す女性」というのがありましたが、
そんな身を整えない女性よりも、この投書の女性のほうがほほえましいと感じられます。

貝原益軒の『五常訓』の中に、

衣服は身の表れなり。人にまじわるに、先ずかたちを見る。
次に言(ことば)をきき、次に行いを見る。

こんな言葉を残しています。

身を整え、次に言葉、そして行いを正すことを教えています。
その意味でもお化粧は身を整える、人としての在り方かもしれません。

そしてそのお化粧の内に潜む隠し味は、
人としての恥じらいではないでしょうか。
ですから人の見えるところで平気でお化粧をする人は、
隠し味としての恥じらいの思いがないのかもしれません。

笑顔の隠し味

この投書の最後のほうに「みんなの笑顔が輝いていた」とあります。
せっかくきれいにシワが見えないようにお化粧したのですが、
そんなこともおかまいなしに、顔いっぱいに笑って、再会を喜んでいます。

この笑顔は人としての味わいなのですが、
この投書の笑顔の隠し味は、みんな元気でいてくれたという、
相手を思う気持ちからの笑顔であることが分かります。
相手を気づかい思いやる隠し味からでる笑顔は美しいものです。

仏様をかたどった仏像の多くがほほえんでいます。
それは人びとの幸せを願ってのほほえみであり、
苦しむ人びとを、その笑顔で癒したいという笑顔かもしれません。
そんな隠し味を持った笑顔は美しいものです。

そうではなくて、相手の不幸を笑ったり、
相手が苦しみ痛い目にあっているのを笑ったり、
相手をいじめて笑ったりする笑顔は、
コーヒーに塩を入れて飲むように、
人としての在り方が間違っているといえます。

人生の隠し味 2 白鳥のたとえ

白鳥の優雅に隠されているもの

白鳥は水に浮き、優雅に泳いでいます。

それは羽毛(うもう)が水をはじくので、水に浮くのです。
羽毛は防水効果や寒い湖面を泳いでいても保温効果があるので、
その羽毛が白鳥の身体を守っているわけです。

また、見えないところでは両足を交互に動かしているので、
優雅に泳いでいるように見えます。

白鳥を見る時に、そのような分析はしないかもしれません。
ただ、その優雅な泳ぎに美しいと感じ見守っています。
でも、白鳥の美しく泳いでいる姿には、この二つが隠されていると思うのです。

人でいえば、この羽毛にあたるものは何でしょう。
羽毛のように生まれながらに持っていて白鳥を守っているもの、
それを仏教的にいえば仏心(ぶっしん)にあたります。

人はみな、生まれながらにしてこの仏心を持っていて、
各々の人生を守っているのです。これは隠された生きる力です。

この仏心があるからこそ、苦難を乗り越えていけ、
自分の幸せと相手の幸せを考えながら生きることができるわけです。
この仏心は人としての隠し味で、この心を正しく使うことで、
人としての味わいが深くなっていきます。

仏心の力はさまざまですが、そのひとつは、相手のことを思いやり感謝する力です。
ここで詩を紹介します。小学校2年の女の子の詩です。

かぞくのみなさんへ

おとうさん、
いつもしごとをして、
おつかれさまでした。
おかあさん、
いつもごはんをたいて、
ごくろうさまでした。
おばあちゃん、
いつもせんたくをしてくれて、
おつかれさまでした。
いつもなつみちゃんをせわをしてくれて、
ありがとう
りなちゃん、
いつもにこにこして
おりこうだね。

((『しなの子ども詩集46』から))

まだ小学校2年生なのに、よく相手のことを見て、
気づかう心を持っています。

相手を思いやり感謝の思いが、この詩から伝わってきます。
この思いが仏心であり、人としての味わいを高めているのです。

ひたむきな努力

白鳥が足を動かし泳いでいる、その足は見えません。
見えないけれども大切な役目をはたしています。

人としての生き方に照らし合わせると、
誰にも知られず努力を繰り返している、
そんなひたむきな努力だと思われます。

その努力が尊いのです。
ひたむきな努力、これも人生の隠し味で、
人としての味わいを深めるものです。

このお話はお寺の女性部の理事のみなさんにしたものですが、
その理事のみなさんの仕事に、1年に3回ほど、
お重を持ってきてもらう役目があります。

法話会の後に、
理事のみなさんが持ってきてくださったお重に入っていた料理を、
法話会に参加したみなさんで頂くのです。

「私が努力して作った料理よ」などという人は一人もいません。
みな心の内で「美味しく食べて頂けるかしら」という謙虚な思いがありますし、
料理を作ってきたご苦労も分かちあって頂くのです。

見えないところで一生懸命作ってきたことをみな知っていて、
感謝していただくわけです。そこに味わいの深さがあります。

仏心という、心の内に秘められている人としての大切な思い。
その思いを日々たんたんと努力して育てていく。
それが人としての隠し味となって、やがて白鳥のような、
美しい生き方が出てくるのだと思います。

人生の隠し味 3 自分のとっての隠し味

心の内に秘めておく大切なこと

仏心にはさまざまな姿があります。
そのひとつでもいいので、自分の隠し味として持っていることが大切です。

私が20代後半に、
京都にある本山妙心寺の教化センターの研究委員として、
2年ほど学んだことがありました。

その時、どなたかに
「あんたは、ぼんぼんやろ!」と言われたことがあったのです。
「ぼんぼん」とは、良家の若い息子という意味がありますが、
その時は、そんな意味でなくて、どうも「何の苦労もしていない奴」という、
そんな意味で言ったのだと察(さっ)したのです。

それ以来、その言葉を一つの教訓として、
何が私に足りないのだろうと思い自己を尋ねてきました。

このお話のテーマで考えると、
人としての隠し味が生かされていないことだと思います。

それから30年ほど過ぎ、平成23年11月に、
友人であった京都の長興院(ちょうこういん)の住職から、
新しく本堂ができたので落慶式に来てほしいという手紙を頂きました。
その時はちょうど都合がつかず、お祝いの気持ちだけを送らせていただいたのです。

後日、その友人から電話を頂き、落慶式の様子を報告してくれました。
その時、本堂新築にあたり、本尊様も痛んでいたので、修理に出したそうです。
お寺に、お寺を守ってくださる本尊様がいない。
そう思うと、友人は「淋しくて淋しくて、たまらなかった」と言うのです。

その話を聞いて、尊い思いを得ることができたのです。
私のお寺でも、もし本尊様がなかったら
生きていけないほど淋しく悲しい思いになるでしょう。
毎朝毎晩、み仏様に礼拝できるありがたさを改めて感じたのです。

「そうだ私の人としての隠し味は『信心』であった」と、そのとき思いました。
ひたむきにみ仏様を信じ生きてきたことが、
私の隠し味になってきたのではないかと思っています。

この『法愛』をお読みのみなさんも、自分の生きる隠し味を今一度再確認し、
味わい深い人生を生きてほしいと思います。

人生の隠し味は、美しい人生を必ず作りだします。