.

ホーム > 法愛 10月号 > 法話

法話

幸せを呼ぶ生き方 1 人生の幸、不幸を決める

新年明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願い致します。

さて、今月は「幸せを呼ぶ生き方」というテーマでのお話です。
このお話は平成23年11月12日、花園女性部の集いでお話ししたものです。
6年ほど前なので、少し書きかえながらお話を致します。

幸せは見えない

幸せは誰が作るのでしょう。

たとえば、皆さんの家は誰が作ったのでしょう。
自分で作る人もいるようですが、
多くの人は建築屋さんに頼み、お金を出して作ってもらいます。
自分の代で作らなくても、父や祖父の時代に作って、そこに住んでいる人もいます。

私の代で作っていただいた護国寺の本堂は、建ててすでに29年になります。

以前の本堂が少し古くなり、その本堂で葬儀を行った翌日、
「バキッ」という大きな音とともに床が抜けたので、建てかえる必要性を感じ、
尊いお布施を納めていただき出来上がりました。

この本堂もさまざまな人の尊い思いによって建てられ、
私自身が一人で建てたものではありません。

これらの形あるものは目に見えるので、
誰が作ったのかを判断するのは簡単なことです。

でも、幸せはどうでしょう。
幸せは目に見えないのです。
幸せを手に取って見せてくださいといっても、
形に出してお見せすることはできないのです。
ですから、「今の幸せは誰が作ったのですか」と聞かれても即答しかねるのです。

本堂という建物は古くなっていっても何百年も持ちますので、
いつまでもここにあって幸せを思うことができます。

でも、ショートケーキはどうでしょう。
このショートケーキを美味しそうと思っていただく。
食べているときには幸せを思いますが、食べてしまうと、
ケーキは影も形もなくなってお皿の上には何も残りません。

幸せはどこにいったのでしょう。
幸せは見えないのです。
ですから、その幸せを誰が作ったと聞かれてもすぐには返答できないわけです。

幸せを決める考え方

先ほどのショートケーキのお話で、
考えてみればたくさんの種類のケーキがあります。

その人の好みで、どのケーキを食べたかで幸せ度が違ってきます。
栗を主体にしたケーキが好きな人、チョコレートを主体にしたケーキが好きな人
それぞれに、食べたときの満足度も違ってきます。

また、隣人に頂いたケーキと、誕生日に特別に作っていただいたケーキとでは、
食べたときの幸せ度も違ってくるものです。

こんな投書が見つかりました。
幸せは、どうもその人の考え方でずいぶん変わってくることがわかります。
男性の方のもので、「考え方」という題です。

「考え方」

私たち夫婦は15年前までは東京のマンション管理会社で、
7階建て3棟の住み込み管理人をしていました。

当時、真夜中にエレベーターの緊急ボタンを押すイタズラがありました。

真夜中に鳴る警報器!
初めは駆けつけても、度重(たびかさ)なると腹も立ちます。
「またイタズラだった」と怒ると、興奮して眠れません。

1年ほど続き、我慢も限界と思った頃、ふと気がつきました。
「本当の事故なら、ふとんに帰って寝るどころじゃない」と。

考え方次第では、安全を確認したら後は、ほっとして眠ればいいわけです。

イタズラのうちが有り難い。
それからは、穏やかな気持ちで管理人の仕事ができるようになりました。

(喜びのタネまき新聞 No.510)

こんな投書です。どうでしょう。

考え方を変えたのは、イタズラにいらいらしていた考え方を、
「本当の事故なら、ふとんに帰って寝るどころではない」と考えを変えて、
幸せな穏やかな気持ちを得たところです。

イタズラという状況は同じでも、
考え方を変えただけで、幸せを得られる。ここに学びがあります。

考える葦(あし)

パスカルという人が「人間は考える葦である」と言ったのは有名な話です。

パスカルは17世紀に活躍したフランスの数学者であり哲学者です。
この言葉が出てくるのは『パンセ』という遺稿集です。
そこを引用してみます。

考えが人間の偉大さをつくる。

(『パンセ』中公文庫)

人間はひとくきの葦にすぎない。
自然の中で最も弱いものである。
だが、それは考える葦である。
(中略)
われわれの尊厳のすべては、考えることの中にある。

(『パンセ』中公文庫)

パスカルはある奇跡に出会い、神を論理的に証明しようと考えます。
その奇跡は「聖荊(せいけい)の奇跡」といわれるものです。

1656年3月24日のことです。
長らく涙膿漏(るいのうろう)という病にかかっていた姪のマルグリットに、
当時10才であったといいますが、
キリストの荊(いばら)の冠(かん)の一部と考えられていた聖荊(せいけい)を、
マルグリットの目にあてると、あっという間に治ってしまったという奇跡です。

この涙膿漏という病気は目の付近に膿(うみ)がたまる病気ですが、
マルグリットは、その膿が鼻や口からもでてくるというもので、
有名なパリの外科医にも治せないものだったそうです。

この奇跡を見て、パスカルは神に対する考えを深めたわけです。

パスカルが「考えが人間の偉大さをつくる」と言ったように、
幸せも、その人の考え方によります。

自分自身が幸せだと思っていれば幸せですし、
幸せでないと思っていれば幸せになれないのです。

投書の男性が、エレベーターの緊急ボタンを押されて、初めは怒っていたのですが、
「本当の事故なら、ふとんに帰って寝るどころじゃない」と考え方を変え、
穏やかに夜を過ごしたように、です。

この意味でも、幸せは見えないがゆえに、感じ取っていくものであり、
また、自分の考えで作り出していけるものなのです。

幸せを見つけようと考える

幸せはその人の考え方に大きく左右されます。

たとえば私のお寺では、毎月「法愛」を出しています。
檀家さんや読みたい方にお配りしたり、郵送しています。
あるいは喫茶店や葬祭ホールなどにおかせてもらっています。

講演に頼まれると必ずこの「法愛」を持っていってお配りし、
読んでもらえるようにしています。

この時、今までの体験から言えば、
100人に1人の割合で読みたいという人が出てきます。
このような人は私にとって、とても尊い人であると思えるのです。

「法愛」を読んで、幸せになりたい、そう考える人。何かを学びたいと考える人。
この「法愛」を見て、手に取り、読んでもいいかなあと思う人。
あるいはまったく興味を示さない人。
それぞれで、その人の考えによって、ずいぶん違いがでてくるのです。

以前(平成20年)、近くの中学校で生徒の皆さんに
「大切な二つの命」という演題でお話ししたことがありました。
それを文章にして、この「法愛」に平成25年の4月と5月に載せたことがありました。

当時は500人くらいの生徒が、この話を聞いて感想文を書き、
その中で優秀な作品を集めて冊子にし渡してくれました。

その中に、各組の担任の先生が「おたより」として配った学年通信も入っていて、
1年2組の先生が、私の話をまとめた後に、
ありがたいことに「法愛」をホームページで見て、私の詩を掲載しておられたのです。

この時私は、
「この先生は、こんな考えを生徒に知らせたいのだなあ」と思ったのです。
今回のテーマからいえば、この考えが幸せを作り出すといえましょう。
その詩を載せてみます。

「必要とされて」

どんなものでも
ここにいるための目的がある
必要があるから
この場にいる

目的もなく必要のないものなど
この世にはない

人もこの世に
目的をもって生まれてきた
必要とされて生まれてきた
何のために・・・

多くを学び
その学びを生かして
幸せになるために

多くを学び
その学びを生かし
なくてはならない人となるために

欲望こんな考えが尊い生き方を作り出し、幸せの道を歩ませてくれると思うのです。
幸せを見つけようと考え行動する人が、幸せ多き人といえるのです。

不幸をどう考えていくか

この演題でお話をした当時、ひとりの女性の7回忌の法要を行ったことがありました。
まだ65才で、女性にとっては早い旅立ちでした。

亡くなった時のことを思い返し、
葬儀の時に書いていただいた「故人を偲ぶ言葉」を読み返してみたのです。
そこには病と闘った気持ちが書かれてあり、
病をこんなふうにとらえて克服し、幸せに転換していく人もいることを知りました。

そんな箇所を少し載せてみます。

お母さん、いつも元気によくしゃべり、よく働いていましたね。

ここ最近は、自分の体調と相談しながらだったけど、
自分の体が動く限り、大好きな花の手入れをしていましたね。

私にこんなことを話してくれたよね。 「お母さんは、病気になって良かったよ。
自分の人生をしっかり考えられたし、何よりも人の痛みがよくわかったよ」って。

大切なことを教えてくれてありがとう。
最後までお母さんらしい生き方だったね。
すごかった。
ありがとう。

お母さん、いつも私たちをやさしく見守ってくれてありがとうございました。
誰とでも気さくに話ができ、皆に愛され、頼りにされていました。
いつも自分のことより、相手のことを一番に考える
やさしい強い心を持った生き方を素敵に感じていました。
母のような生き方を見習いたいです。

ここでは2人の方の言葉を載せました。
ここに出てくるお母さんは不治の病と闘って、その思いが書かれています。

「病気になって良かったよ」という考え方は、なかなかできるものではありません。
すっかり治って元気になり、病気のことを冷静に振り返れば、
そういう考えもできるかもしれません。

でも、今病気と闘っているさなかに、このような言葉を語れるというのは、
ここにもでてきますが「強い心」を持った方なのです。

そして
「病気になって、自分の人生をしっかり考えられ、何よりも人の痛みがわかった」
と言っています。

病気という不幸を、このように考えとらえていくと、
幸せの風が吹き抜けていくのです。

どんなものにも幸せを感じとる力

この女性の生き方を、この文章から察すると、
「やさしさ」と「人を思う気持ちの深さ」ではないかと思います。

そんな生き方が、病気をプラスにとらえ、
何かを学び取ろうとしているのだと思います。
この女性も「法愛」をとても大切にされ、よく読んでおられました。

このように病気から幸せを感じ取っていくのは難しいことですが、
どんなものにも、どんな出来事にも、そこに幸せを見つけ出していこうとする、
そんな考えを大切にしていくことが、幸せを呼ぶ、大切な生き方だと思います。

ある新聞に(朝日平成28年11月24日)に、
「ダウン症の人『毎日幸せ』9割」という見出しの記事がありました。

「毎日幸せに思うことが多い」という人が71%
「ほとんどそう」と答えた人が20%でした。

この中に、67才の女性で、自分の子がダウン症と聞いて
「障害児なんかいらない」という思いがよぎった人のことが載っていました。
でも、当時の担当医が「ゆっくりだが普通に成長できる」と助言してくれ、
前向きになって考えられるようになった、と。

そして
「この子のおかげで、私の人生には厚みや幅ができた。
わが子がダウン症だったことは、私にとってプラスになりました」
と言っています。

どんな立場に立たされても、どんな時でも、前向きに考え、
その中から幸せをみつけ出そうと努力すれば、
そこに必ず、幸せの花を見つけることができます。

(つづく)